下タ沢会によせて(覚書)

附2 尾去沢小学校校歌の周辺

 尾去沢小学校校歌の周辺(1)(続き)
 
 これが私が二十五年間背負ってきた宿題の出発点である。つまりどんなツテで、 どんな経緯を経て校歌の作詞作曲をこの二人の先生にお願いしたろうか、当時鉱山は 中央とのつながりも深く、いわゆる一流大学を出た人もたくさん来ていた。もしか したらそんなところになぞをとくカギがあるかもしれない。そして一番最初に学校 に送られてきた歌詞なり楽譜なりが、たとえ先生の直筆でなくても、必ずあったは ずだから、それがとうなったんだろうか、それがあれば学校の貴重な宝になる、と 思ったが、記念誌編集の過程では手が及ばないまゝ終ってしまった。
 
 たゞ学校の記録の中に、六十周年に校歌を作ったという記事があったような気が して、先日校長先生に確めてみてもらったところ、昭和九年の項に簡単な次のよう な記載があった。
○昭和九年九月二十日、創立六十周年記念式挙行、功労者表彰、学芸会展覧会、祝 賀会ヲ催ス。
○校歌制定、作詩北原白秋氏、作曲山田耕筰氏。
○十月二十一日、六十周年記念大運動会ヲ催ス。
 
 私がはじめ、鉱山が、と思ったのは記念誌のもあるように、鉱山は常に全面的に 学校を支援し、深いつながりがあった。また昭和三十年代の半?まで毎年、年度末 (始)には校長先生がそれぞれ転任、新任の先生方を連れて鉱山にあいさつに来て いたような気もします。また私達が学校に通っていた頃は、卒業式や入学式のとき などには、必ず鉱山長が来賓としてこられ、私達にお話をしてくれたものであった。 そうしたことは、いつ頃から止んだかわからないが、娘が小学校に入るとき(昭和 三十九年)には来ておられなかったような気がします。
 戦後PTAが結成され、その初代会長以来、そのほとんどが鉱山関係者であったと思 います。
 
 それはそれとして百周年のときから、いつか校歌のいきさつを確めてみようと思 いながら、当時の校長先生(沢口正三、昭和八〜十年)もすでに亡くなったろうし、 あの先生もこの先生もと思いあぐねているうちに時が過ぎていってしまった。
 
 そんなある日、といっても十年もたった頃であったろうか、フッと川上栄太郎先 生が知っているかもしれないと思った。……(続く)……
 
 この話し、はじめ一枚ぐらいで終るつもりでしたが、書いているうちに中学校の 校歌にとんだり、花輪高等女学校の校歌(同じ作詩作曲者)の制定の時の話しにな ったりで、長くなりましたので、今回はこれで一区切りとして、また新しい年がく るまで、五十枚に登る話しにしていきたいと思います。

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