あれから二十年、とまたいうが、六月二十六日の閉山式のときの社長の式辞の一
節を抜き出して、このこぼれ話しのまとめにする。 閉山式のその日は午前九時、(両社)山神社において三菱金属稲井社長はじめ社 内代表の参列のもとに、閉山報告神事式を行ない、引続き十時より市民体育館(旧 協和会館)において、小畑秋田県知事外来賓多数のご臨席をいたゞいて、閉山式が 厳しゅくに行われた。 南社長の式辞から、 …… 尾去沢鉱山は和銅元年の開山と伝えられ、爾来一二七〇年の長い間、幾多の諸先 輩の血と涙と汗とで築き上げ、その名を全国に広めさせた日本一の大鉱山も、今そ の使命を全うして静かな眠りに入るのを、私達が見届けることは、誠に感無量なる ものがあります。 昭和四十八年から四十九年にかけての銅価の値上りは、大物通(金偏+通、ヒ)の着 脈と相俟って、尾去沢鉱山の安泰を示唆するかに見えましたが、その後の銅価の急 落と物価の高騰は、鉱山の経営内容を一層悪化させ、昭和五十年年末の再度の大合 理化を行なわざるを得ず、多くの従業員の方々に勇退して頂きました。その後大物 通(金偏+通、ヒ)の大直利に着脈し喜び湧いたこともありましたが、探鉱にかけた必 死の努力にもかゝわらず、その成果は思わしくなく、更に銅価の低迷に打勝てず、 高品位鉱の枯かつとなり、遂に閉山という最終段階に立ち至りました。 鉱脈を捜し求めた、、あのさく岩機の金属音、鉱石を運び出す電車の車輪の音、 コンプレッサーの圧縮音、そして鉱石を砕く選鉱の力強い音、今はもうこの音を聞 くことができず、鉱山は静寂の中にひっそりとして、歴史をきざんで佇んでいます。 山は終りました。…… 鉱山は終りました。が、鉱山は私達の心の中にいつまでも生きている。そんな思 いをこめながら、何にか自分のことばかりいゝ気になって書いている、そんな気も しますが、たゞこの鉱山を閉めるに当って、会社と組合のみが主役であった、当然 そうなるわけで、それはそれでいゝわけですが、それだけでなく、実さいに現場で 働いていた人たちの、鉱山を思う心も凝縮されていって、閉山諸行事の中に結びつ いていった、そのことを書き残しておきたい、そう思いました。 この中に書いた小さな話しは、歴史の正史にも裏面史にも登上することなく、や がて私達の人生と共に消えてゆくわけですが、消えてゆくだけに、私はこの鉱 山に対する一人ひとりの気持を、鉱山に寄せた思いを大事にしていきたいと思い ます。 私達の子や孫がいつの日か尾去沢鉱山の歴史を読むときに、家のオジイさんもこ の鉱山に働いて、最後の幕を引いた一人だったんだ、当時の人はこんな思いで鉱山 を閉めたんだ、という思い出のよすがともなればとも思います。そしてそれがふる 里を大事にする心にもつながってゆけたらと思います。 今考えてみると、私達は鉱山という亡くなった人の法事をやっていたようにな気 もします。三年、七年、そして十三回忌は一年早くやった。そんな気もします。 鉱山では殉職された方々の法要を十三回忌まで、毎年お盆にご遺族の方々のお出 を願って円通寺でやっておりました。 今、「やま」を忍ぶ会では、当日午前十時からマインランドの殉職者の碑(勇 者の碑)の前で、古遠部、松木の殉職された方々も一緒に慰霊祭を行なう予定をし ております。 今年は「やま」を偲ぶ会の人たちも来られると思い、(両社)山神社境内等の清 掃もいつもより念入りにやっていたゞきました。中央通り自治会では、せめてもの 歓迎のしるしにもと、例年市の花いっぱい運動に合せて、六月下旬にやっていたプ ランターの配置を、今年は四月の終り頃やりました。今はパンジーの生長を待って いるところです。 |