下タ沢会によせて(覚書)

附1 閉山こぼれ話し

 話しは違うが、世の中には火事場泥棒というのがある。我々の中にはそうした者 はいないと思うが、閉山というどさくさまぎれに、俺はあれをうまいことごまかし て持っていってやった、といったところで金の延棒があるわけではないし、車に積 んだところで何程の物を持っていけるか、我々がこの鉱山に働いた何十年という人 生は、絶対に取りもどすことできない、その人生を泥棒根性でしめくゝったんでは、 せっかく真面目に生きてきたその人生が哭く、たとえうまいこと盗み出して、その 機材なり鉄屑なりを、かりに一万円で売ったとしても、その結果が何年か後にこの 鉱山をたずねてきたときに、あの時俺はうまいことやって一万円もうけた、と得意 な気分になるだろうか、むしろ何十年とこの鉱山に働いてきた価値が、たった一万 円のコソ泥だったという悔いにはならないだろうか、そんな馬鹿な人はいないとし ても、いわゆる火事場泥棒がどこから入りこむかわからない、どこの誰かもわから ない者に、我々が大事に使ってきた物を、たとえ一辺の鉄屑だろうと、むざむざ持 っていかれてもたまらない。皆で物品の管理もより厳重にやるようにしよう。
 
 くり返すわけではないが、我々が五年後か十年後か、いつかこの鉱山に立ったと き、あそこはどうなったろう、俺の掘ったあそこはつぶれてしまったろうか、など いろんな思いがかけめぐるであろう、その時に、自分の職場をいゝかげんにして片 付けもしないで、ほったらかしにして去っていたら、きっと後悔の苦しい思いがに じみ出てくるであろう。
 職場をきれいにするということは、自分の心をきれいにすることである。何十年 と働いてきた自分の人生をきれいにすることである。そしてそれは、時を経なけれ ばわからないことでもある。思い出になってはじめて、価値を持って生きてくる。
 
 我々は今有終の美をかざろうという、しかし有終の美をかざるということは、一 人ではできない、一人でも事故を起したり、一人でも間違ったことをする者がいた ら、それはなり立たない、尾去沢鉱山が有終の美をかざるということは、皆が力を 合せ、皆が心を一つにしていかなければできないことである。
 いゝかえれば、一人だけ有終の美をかざっても、それで尾去沢が有終の美をかざ ったということにはならない。また皆がいくら頑張っても、一人でもおかしなこと になると、すべてが崩れてしまう。有終の美をかざるということは、九九%ではだ めなんだ、一〇〇%でなければならない。
 
 我々は今、毎年実施してきた保安清掃運動に取り組んでいるが、これが今のこの 時期と重なり合ったということは、神様が鉱山の最後を心残りのないようにきれい にしなさい、というおぼしめしなんだ、などと神様を引っぱり出す気はないが、何 にかの因縁なのかもしれない。
 
 我々一人ひとりには、それぞれ苦しみもあり、悩みもある。けれどもこの一二七 〇年の尾去沢の歴史の最後を閉めるのは、我々なんだという気持を忘れないで、皆 で力を合せて、最後まで頑張っていこう。
 
 そして、最後の五月二十七日付の一五五号の中の一節にこんなことを書いていた。
 みんなそれぞれいろいろな思い出があり、この日を迎えた感慨は一しお深いもの があると思う。なにはともあれ、この日を無事に迎えるために、一二七〇年の歴史 を閉じざるを得ないというきびしい前提のもとに、交渉に当った労使双方の苦労と いうか、その心労はいゝつくせぬものがあったと思う。それぞれの立場に立って、 誠意をもって最善をつくして交渉に当った。万人が満足できる解決はあり得ないと しても、ご苦労さんでした、有難う、という気持をもって、この結末を明るくしめ くゝりたいものだと思う。そしてお互い同士もまた、長い間お世話になりました、 ご苦労さまでした、有難う、という気持で別れたいものだと思う。

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