下タ沢会によせて(覚書)

附1 閉山こぼれ話し

 保安清掃運動 四月二十二日〜五月十日、保安総点検 五月十一日〜十三日

 そのときの五月二日付の災害事例速報の一五三号にこんなことを書いている。

 無意味な無駄骨だろうか − 鉱山をきれいにしよう −
 我々は今、春の保安清掃運動をやっている。今更そんなことをやったって何んに なるんだ、もう終りじゃネエか、という人もあるかもしれない、またその人その人 なりにその意味を考えている人もあるかもしれない。
 ともあれ、この運動を一生懸命やることによって、苦しさに崩れようとする自分 の心の支えにする、また自分の長年働いてきた職場、こゝに働くことによって自 分の生活を築いてきた、いわばカーチャンをもらい子供を育てゝきた職場、その職 場に長い間お世話になった、有難う、という気持できれいにしてお別れする、とい う気持も大切ではないだろうか。
 
 また別のいゝ方をすれば、尾去沢鉱山は今、天寿を全うして、静かな眠りにつこ うとしている。我々人間であっても、人生を終ってあの世に旅立つときは、身近な 人たちが集って、その体を清め、新しい白い着物をきせてやる。この最後であろう 保安清掃運動は、まさにこの役目を果たしているのではないだろうか、そして総点 検は、長い旅立ちに手落ちはなんか、道中は安全かと、いわば三途の川を渡るお金 は持っているか、杖は笠はと確めることではないだろうか、話しは悲しいたとえに なったけれども、静かに感謝し、合掌する心で、鉱山の最後のときをきれいにした いものだと思う。
 そして我々がいつこの鉱山をおとずれても、我々はきれいに片付け、きれいに掃 除して、この鉱山を去ったんだと、誇りをもって向えるようにしたいものだと思う。 それがまた、自分の人生の一つのしめくゝりとして、今までの人生が意義あったか、 無駄骨であったかの、分れ目でもあると思う。

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