下タ沢会によせて(覚書)

附1 閉山こぼれ話し

 最後の出鉱 − 昭和五十三年五月二十五日 −
 
 話しはとびとびになってゆくが、五月二十五日、二階から下りてきた社長が、今 日最後の出鉱のあることを知っているか、という。知らないでおりました、といっ たら、午後から一緒に行くか、ということで一時すぎカメラを持って社長の後ろに ついて行った。採鉱事務所のところから中段電車道に上ったら知らない人がカメラ を下げて、ブラブラ歩いていた。あの人はなんですか、ときいたら毎日新聞の記者 さんが取材にきているんだ、ということだった。
 坑口を入って集収運搬の漏斗から鉱石を全部抜きだして七トングランビー鉱車何 台かに積んで、また坑口に向う。坑口から電車が出たら一寸止めてくれよ、と運転 していた人にいう。そこで、これがこの鉱山から鉱石の出る最後だから写真をとろ う、ということにした。が、たゞこのまゝ写したんでは、後で何んの写真だかわか らなくなるから、最後の出鉱とでも書こうということで、その辺にあった巾七寸く らいの一寸板を見つけてもらった。社長書いて下さい、いったら米田区長がチョー ク入れから半分程に減った白いチョークを出した(採鉱の係員はチョークが二本入 るケースをつくって、いつでも携帯していた)。社長は一枚には横に「一二七〇年 間の最終出鉱列車、昭和五十三年五月二十五日」と書き、もう一枚には縦に「千年 の歴史の鉱山に春惜しむ」と書いて、それを立てゝ写真を写していたら、さっきい た記者さんがきた、一枚写さして下さい、というのでどうぞといったまではいゝが、 記者さんフラッシュのタマが品切れ、残念でしたということで、私の持っているタ マを使って下さい、とやった。私の写した写真には、私が写っていないから、でき たら一枚下さいよ、いったがそれはそのまゝ……、あたり前のことだが。
 
 次の朝早く採鉱課長から電話がきた。「相馬さん毎日新聞ないか」という話し、 今朝早く娘から電話がきて、毎日新聞の一面に大きく尾去沢鉱山の写真が出ていて、 お父さんも写っているよ、ということだったと。早速何枚かコピーした。
 昨日私のポケットに一発の閃光電球がなかったら、この写真が全国版にのること もなかったナー、と思った。それはケガの功名でもなければ、毎日の記者さんがこ の場にきたのも単なる偶然だったわけだが、全国版に大きくのるということは、そ れだけ一二七〇年という長い鉱山の歴史の重みだナーと思った。がしかしこれは喜 んでいゝのか悲しんでいゝのか、一寸複雑な心境でもあった。
(このとき写っていたのは南社長、山田採鉱課長、米田区長、佐藤新太郎さん、田 村繁さん、阿部裕さん、電車を運転していたのは児玉勝栄さん)。

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