下タ沢会によせて(覚書)

附1 閉山こぼれ話し

 歴史を閉じる日のために(続き)
 
 一二七〇年、この鉱山の歴史を閉ずるのが我々であるならば、美しく閉じよう。 我々個人個人をいうならば、苦しみもあり、悲しみもあり、なやみもある。しかし、 この鉱山の歴史を閉じるのが我々であるならば、それを乗り越えていこう。
 
 父なる鉱山よ/母なる鉱山よ/数えきれない多くの人々を養い育て/美しいこの 世の文化を高め/文明の礎となり/人間社会の発展を黙々と支えてきた/大いなる 鉱山よ
 
 一二七〇年/その長い歴史の最後を閉ずる日は/美しい夕陽の輝く日でありたい /美しい夕やけが空を染める日でありたい
 
 父なる鉱山よ/母なる鉱山よ/つきせぬ感謝と愛情をこめて/我々のほほは悲し みの涙にぬるゝとも/誇りをもって別れを告げよう/誇りをもって夕やけの空に叫 ぼう/尾去沢鉱山今こゝに一二七〇年の歴史を閉ず、と。
 
 その日の一日でも遠からんことを願いつゝ、その日まで全力をつくして進もう。 その日まで力を合せて進もう。いさかいもなく平和のうちに美しくこの鉱山の歴史 を閉ずる、その日まで。
 (そしてこの我々の努力が、新しい鉱山の運命を拓く日のあらんことを心の中に ひそやかに念じつゝ。)
 
 先にも書いたように、一人で力んで一人相撲をとっている、今更のようにそんな 気がします。この「保安ニュース」はこの号で終ってしまいましたが、私はこの後、 最後の一号を書きたいと思っておりました。それは閉山前後のことなど書いて、最 後のページには一緒に閉山の幕を引いた仲間の名前を、採鉱の誰々、選鉱の誰々と いうように全部書いておきたいと思いました。これからも尾去沢鉱山の歴史は書か れると思いますが、私達一人ひとりの名前はどこにも書かれることはないと思いま す。それはそれでいゝわけですが、俺も尾去沢鉱山に働いたんだ、最後の幕を引い たんだ、という自分自身の思い出に、働いた人生の証しに書いておきたいと思いま した。が思っているうちにもう二十年もたってしまい、記憶もうすれてしまいまし たが。
 
 それはそれとして、私は保安事務局の仕事もしていたので、今こゝで、もうどう しようもない、どうにもならないんだというあきらめ、気のゆるみから死亡災害の ような大きな事故の起ることは、なんとしても防がなければならない、これは私が いうまでもなく、会社首脳部も組合幹部も共通した願いであったと思います。その ためにも気をひきしめて、自分達のおかれている現実をしっかり認識して前向きに、 前向きに進んでいきたい、それは一二七〇年の歴史はもとより、昭和四十年以来こ ゝに残る私達に後を託して鉱山を出ていった仲間に対する責任でもある。最善をつ くした。後の世の人たちはそれをどう評価するかは別として、私達はそう自分達の 心を納得させる、お互いが止むを得なかった、と納得できる、そういう閉山と したかった。
 
 よそに出ていった人達には、まだまだ鉱石があったんではないか、会社のいゝ分 にまかれたんではないか、という不信の念がるかもしれない。しかし初めにも書い たように、組合の執行部は一つ一つの切羽を確認してまわった。そして私達はその 昔、田郡、下タ沢方面や坑外各所に捨ててあったズリをも回収した。捨てたものま で集めたんだ、それだけ鉱山の延命に真剣に取り組んだ。それは会社とか組合とか の問題ではなくして、働いていた一人ひとりが鉱山の灯を消すな、鉱山を守ろうを 合言葉に一つになって取り組んだ、最後の日々であったと思います。
 
 話しはかわりますが、

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