下タ沢会によせて(覚書)

附1 閉山こぼれ話し

(保安ニュース第五十五号から)
 歴史を閉じる日のために
− その日の一日も遠からんことを願いつゝ、その日のために −
 
 昭和五十二年十一月十二日、朝、風なし。うっすらと雪化粧をした五十枚に連な る山肌を冬のおとずれを告げる弱い陽ざしがあたゝめている。いつもと変らない静 かな朝であった。
 しかしこの日は、尾去沢鉱山の歴史の中に、かってない一転機を画する日として、 大きく記録され、また我々の心に残っていくだろう。
 
 ”一月末閉山発表”
 
 思えば、尾去沢鉱山は三菱金属社内随一の大場所として、閉山、縮少による多く の鉱山の仲間を受け入れてきた。
 それがはじめて他場所に転換者を出したのは、製錬縮少による二十四名の仲間に 小名浜その他の場所に送り出した昭和四十年四月からであった。当時の記録にこん な一文がある。
 「係員以下従業員には他場所転換の経験がなく、今回はじめて場所を離れたので あり、多数の転換者をみたということは、極めて重要な転機であって、関係従業員 に与えた心理的影響は大きい。花輪駅頭における涙ながらの見送り風景は、今まで にない情景であり、まことに印象深いものがあった。」
 
 坦々と書いているこの一文は、その後の尾去沢の歩む道を暗示しているかのよう である。
 
 続いて四十一年の製錬廃止、四十二年の二山合理化問題、四十六年の五山合理化 問題と激動の波を経て、四七年四月新会社発足、更に五十年十二月の延命策の実施 と続き、従業員の数も往時のおゝよそ十分の一と激減した。
 
 しかしながらこの地域における最大企業の一つとして、その閉山の与える社会的 影響は大きい。
 今、問題は労使の誠意によって「月三万トン出鉱、赤字巾を三千万円におさえる、 その間探鉱の実施し、労使とも最大限の努力をして鉱山の延命をはかる。一月末閉 山にはこだわらない」という基調が確認された。
 
 閉山は遠のいたかのようではあるが、またそれは近い将来であるかもしれない。 再生できない限り、ある資源を掘り出す鉱山として、いつの日か閉山せざるを得な いことは自明の理ではあるが、現実にその日に立つ我々の心は複雑である。
 
 我々人の子は、親を失うことは最大の悲しみである。いつまでも生きていて欲し いと願うことはいうまでもない。しかし天寿を全うしてこの世を去るのであれば、 悲しい中にも静かに合掌する心のやすらぎがある。
 尾去沢鉱山、和銅元年(七〇八年)に発見と伝えられてより一二七〇年、幾多の 盛衰を繰返しながら一度として休山することなく、連綿として続き今日に至ってい る。その間、この鉱山に生れ育ち、あるいは来り去り、働き、暮らした人の数はど れほどになるのか数えるすべも知らないが、それら多くの人々の人生の哀歓を積み 重ねつゝその生み出した金、銀、銅、その他の金属が、この社会の発展に寄与した 功績は、またはかり知れないものがある。
 
 日本最古の鉱山として、日本を代表する名鉱山として、長い歴史と伝統に輝く尾 去沢鉱山は、今まさにその命脈が尽きようとしている。天寿を全うせしめ静かにそ のまぶたを閉じてやりたいと願うのは、私一人のみだろうか。
 
 この鉱山を閉ずることは悲しい、しかし一二七〇年誰もがめぐり会うことができ なかったその日に、今我々は立っている。一二七〇年の鉱山の歴史を我々自らの手 で閉ずる、その日に我々は今立っている。
 千載一遇という言葉がある。今まさに我々はそのときに立っている。悲しくとも それは、この鉱山の長い歴史の中で誰も手にすることのできなかった栄光であり誇 りでもないか。

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