閉山こぼれ話し − 一二〇〇年の歴史を閉めた男たちの小さな物語 − 中央通り 相馬茂夫 早いものです。尾去沢鉱山が閉山して二十年たちました。私達はこの間三度(三 年目、七年目、十年目=実さいはコスモアドベンチャーの完成を待って十一年目) 小真木、大葛も含めて、尾去沢鉱山を忍ぶ会をやってきましたが、その後一つの節 目として十五年目と思いましたが、できないでいるうちに日がたち、二十年目には、 もうこの後できないかもしれないので、大きな節目として是非やりたいものだと思 っておりました。幸いなことに、昨年菱友懇談会の人達の間から古遠部、松木鉱 山も含めて「やま」を忍ぶ会をやろうという話しがもち上り、以来今年の五月十六 日の開催を目ざして着々と準備の進められていることはご存知のとおりです。 今、閉山当時を思い起してみると、それぞれ一人ひとりには尽ない思い出がある と思います。いつだったか、山本昭一さんが、何かの話しから、閉山の頃の話しに なり、「あのときは、斉藤委員長と二人で毎日切羽を一つ一つ見てまわったちよ」 といっていました。労働組合の責任者として、たゞ単に会社のいゝ分をハイそうで すかと鵜のみにするわけにはいかない。鉱山(やま)の現状を自分達でしっかり見 極めなければならない。それはまた尾去沢に絶ちがたい思いを残して、昭和三十九 年の製錬縮少問題以来数度にわたる合理化縮少によって、”後は頼むぞ”とよそに 出て行った多くの仲間たち、ひいては日本一の名鉱山といわれ、千二百年余の長い 歴史を誇る尾去沢鉱山を、自分達の時代に、自分達の手で閉めなければならない。 それは単に鉱石がなくなったから、採算が合わなくなったからということ以上に、 心に重くのしかゝるものがあったと思います。本当にこれで止むを得ないんだと自 分自身も納得し、納得させる見極めが大事だったろうと思います。 その頃私は、鉱山事務所の庶務係で保安事務局の仕事もしており、ケガをするな、 事故を起すな、という立場から、「保安ニュース」とか、「災害事例速報」といっ たものを書いておりましたが、今それを読みかえしてみても、肩肘張って一人で力 みかえっているみたいで、恥しい思いもしますが、それもまたその頃の私達のいつ わらない鉱山(以下「ヤマ」と訓んで下さい。)に寄せる思いでもあったと、昭和五十二年十二月十五日付の 「保安ニュース」第五十五号から閉山に直面した私達の気持を書いた一文を、 先ず抜き出して当時を振りかえってみたいと思います。 |