私は阿部恭助日記の戊辰戦争のところで、金掘り共が出陣するとき、得物は得手
なものを持て、といっているが、その中の鐇がわからなくて色々さがしたが、結局
わからずじまいで終ったが、阿仁鉱山と友子(阿仁町、平成6年発行、阿仁町史資
料編第5集)という本があるのを思い出し、同じ鉱山だから何にかあるかもしれな
いと思って、みていたら、鐇には当らなかったが、最後の方に「金山詞(かなやま
ことば)という項があって、鉱山で使う道具やその説明なども書いていた。その中
に、 「セットウはフランス語の大槌を意味するマセットからきたものであるが、重さ 1キロを越す特殊な形をしたハンマーで、三ツの型があった。 鼓型、鉄砲型、櫛型の三ツで(といわれても、どんな形か見当もつかないが)、 阿仁鉱山の手掘鉱夫は櫛型のセットウを使った。かつて「支柱花岡、機械(削岩機) 尾去沢、手掘阿仁」というそれぞれの鉱山の鉱夫の特徴をいいあらわした言葉があ った。阿仁鉱山の鉱夫は手掘が得意で、櫛型のセットウを使った。阿仁鉱山の渡り 鉱夫が櫛型のセットウを持って、よその鉱山に行くと、ほかの人より多くの賃金を もらえたという。」 戦時中、昭和16〜7年の頃であったか、全国鉱山の穿岩夫の掘穿技術の競技大会 (正式の名称は忘れたが)があって、尾去沢はいつも優勝していた。機械尾去沢と いうのもむべなるかな、と一人合点している。 私は尾去沢鉱山に伝わる唄の一つとして、石頭節を書いて、明治になってからで きた唄だろうと勝手な推測を書いたが、阿仁鉱山には明治になってから多くの外国 人技術者がやってきたといい、阿仁異人館は、明治12年アドルフ・メッケルらドイツ 人鉱山技師の住宅として建てられたというから、フランス語のマセット(セットウ) が伝ってきたのもその頃ではないだろうか。ということは、私の石頭節明治説も、 当らずもといえども遠からじ、というところか。 |