下タ沢会によせて(覚書)

祈、武運長久

 ともあれ国のために死んだ人は、神様として靖国神社に祀られるということにな っていて、私達は深く考えもせず、靖国神社、々々といってきたが、さて靖国の 「靖」とは何んだと聞かれても、一寸わからない。更めて辞典をみたら、@やすい、 やすらか、しずか。Aやすんずる、やわらげる、しずめる。また靖国とは、国家を やすらかにする。とあって、そうかそうかと今頃納得となったわけだが、私達の時 代は、現役で行くにせよ、招集で行くにせよ、靖国神社で会いましょうを合言葉と して出かけて行った(本当は生きて帰りたかった)。出発するときは、(両社)山 神社の大鳥居の前(元の役場のあったあたりの路上)に整列して、武運長久を祈願 し、祝出征(入営)何々君と書いた幟を何本も立てて、軍歌を歌いながら花輪駅ま で送られた(今の山神社は昭和13年10月に現在地に移ったので、それ以前は元の小 学校の正面玄関前の路上に整列した記憶もある。)。
 
 日の丸の旗にも、「祈武運長久」と書いて、みんなで寄書きをした。千人針とい っても今の子供達は分らないだろうが、私達が行く頃は、既製品も出来ていたと思 う。それに女の人達が赤い糸で1人1人づつぬって結び目をつけた。虎年生れの人は 自分の年の数だけぬえるというので大忙しだった(誰がいつ、そんなことをいい出 したかわからないが、虎に関することわざなどからきているのだろう。)。
○「虎は千里行って千里帰る」。虎は一日に千里行って、またその千里を戻って来 ることができる。また勢いの盛んなさまにたとえる、と。
○「虎は子を思うて千里を帰る」。虎が子を愛することの切なるさまをいう。また 「ぼんなうな犬は門に帰る。虎子を思ひて千里を帰る」とも)
 
 虎は一日に千里行って千里帰る、というように、その勇猛さは別としても、元気 で無事で早く帰ってこいと願う親心と、子を思うて千里を帰るという虎の親心を1本 の赤い糸に托して、結び目をつくっていった。でき上ると走っている虎の姿が浮き 上るのもあったような気がする。それに1個か2個、5銭玉や10銭玉をぬいつけた。死 線をこえるように5銭、苦銭をこえるように10銭と。私達のように現役で行く人は、 前もって入隊の日が決っていたから余裕があったが、招集で行く人は時間がなくて、 大変だった。その千人の願いを込めた腹(胴)巻きを巻いて、戦地に向った。実さ いにその5銭玉か10銭玉に弾が当って命が助かった、という話しを聞いたことがある (嘘の範囲を出ないが)。
 私が行くときは冬だったので、下タ沢の稲荷さんにはお参りに行かなかった。
 
 考えてみれば、武運長久を祈るということは、無事で生きて帰ってこい、と祈る ことだったと思う。戦争に行くんだから当然戦死ということは、考えなければなら ない。国の為、皆なの為にと心にいいきかせて、生きて帰らない覚悟をしていかな ければならなかった。私自身も死にたくはなかったし、家のことを思えば生きて帰 りたかった。生きて帰りたい、生きて帰ってこい、それが武運長久を祈ることだっ たと思っている。ただ単に、大げさにいえば、大義名分に殉じて死ぬだけだったら、 手柄を立てるようには祈っても、武運が長く久しくなどと願うことはなかった。とは いえ、例えば特攻隊などのように、純粋に国に殉じた人も多くいると思うので、私 の屁理屈などどうでもよいが、ただ私は運よく生きて帰って(武運長久で)、こう して80年を迎えることができたが、戦死したいとこの敏男は、慰霊祭がくる度に、 義夫がこない、どうしたろう、義夫も下タ沢に生れ育ち、尾去沢の人間として戦死 したのに、と浮き世の移り変りを知らないので、そう思って淋しがっているかもし れない。
 
 今年もまた首相や大臣が、靖国神社に参拝するのしないのとさわいでいるが、難 しい理屈は私にはわからないが、ただその国のために殉じた、国を護った神さまと してまつられている、当の本人たちはどんな思いでこの浮世のさわぎをみているだ ろうか、彼等は何にを願って私達をみているだろうか。
 
 戦争は一人軍人のみを戦火にさらすのでなく、多くの無辜の人達もその犠牲にす る。そのもたらす悲惨さ、苛酷さ、むごたらしさは、また多くの不幸を生み苦しみ を生んでいく。彼等は何にを願って私達を見ているだろうか。今年もまたお盆がく る。彼等の心に深く思いを致し、静かに鎮魂の香をたむけよう、ということにして。

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