下タ沢会によせて(覚書)

花輪の桜山神社と招魂碑

 戊辰戦争の鹿角の戦死者をまつった花輪の桜山神社は明治の20年代、小田島由義 等が発起人となって寄付をつのり、盛岡の桜山神社(南部家の祖廟、初代光行公と 中興の祖第二十六代信直公を祭神としている。南部藩は信直が天正18年(1590)、 豊臣秀吉によって南部内七郡の領有が認められ、つづいて徳川家康からも所領が安 堵され、十万石を領したときにはじまる。以後15代続き廃藩となる。)を分社し て建立したもので、そのいきさつは、小田島由義の「遺烈余芳」にくわしいが、昔 の文章なので頭が痛くなるので、平成10年の鹿角市文化財保護協会の総会記念講演 や文化財保護研究発表会(戊辰戦争関係、機関誌上津野NO.24)の発表の中から、そ のいきさつをみてみることにする。
 
 この発表会で、パネリストの佐藤三郎先生は、「香典は士分は500疋、又(獣偏 (ケモノヘン)+又、マタギ)、農兵 は100疋であった。このように士分は厚く君恩を受けるも、農兵又(獣偏+又)卒は 尚軽視されることへ反省深く」といっている。小田島由義はその「戦死者弔祭之 事」の中で、士は兎も角、生前は厚く君恩をも担はず死後も亦栄賞を受くる事なき 農兵亦又(獣偏+又)卒などの死者に対せば、最も嘆はしき次第にして」といって いる。そして佐藤先生は、「農兵亦又(獣偏+又)等の死者に対して、その忠節を 永く後世に伝え追悼したい、という念が強かったのである。」といっている。その くわしい経緯は省略するとして、その建碑を議してから五年の歳月を要した。とし て次のように書いている。
 
○明治二十三年(1890)九月二十五日(戊辰戦争の停戦日):招魂碑建立を決す。
○明治二十八年八月九日(開戦日):戊辰戦争殉難者招魂碑建立
○明治三十年五月二十九日:桜山神社遷宮祭(秋田県の許可を得て分社)
 以来、北館を「桜山」と呼ぶようになった。
 三十日、招魂祭
 ※桜山神社分社事由
 南部領の記念として、南部家の宗廟を祀る。
 境内に戊辰戦争殉難者の建碑
 神社の祭礼と併せ、殉難者の弔祭を行う。

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