下タ沢会によせて(覚書)

南部軍の布陣

 戊辰戦争といっても、私達は南部と秋田の戦さ、ぐらいにしか思っていなかった が(小学校の歴史で習ったはずだが。ちなみに私達の時は小学校のときは国史で、 高等科になると歴史だったような気がする)、慶応から明治にかけての新政府軍と 旧幕府側との戦いの総称で、鳥羽伏見の戦い、彰義隊の戦い(上野戦争)、長岡藩 (北越戦争)・會津藩(會津戦争)との戦争、箱館戦争など含む(広辞苑)一連の戦 争をいうわけだが、この戦争の話しもわが沢出可禄の戦死で一応終りとするが、と もあれ、この戦さの南部軍の鹿角口秋田討入の部隊編成は、次のようであったとい う(鹿角市史より)。
 
○十二所口:先鋒 花輪隊一番手二〇〇人余(所給人、与力、同心及び又(獣偏 (ケモノヘン)+又、マタギ)、農兵含む)。  剣鎗昭武隊一小隊、鉄炮発機(ハツキ)隊三小隊、鉄炮同心鳥蛇(チョウダ)隊 一小隊、楢山佐渡勢、計五五〇余人
 
○別所口:先鋒花輪隊二番手一五〇人余。新番組石亀左司馬、渡部萬治地儀隊、計 二〇三人。
 
○葛原口:嚮導ほか毛馬内給人以下一〇〇位余、昭武隊、発機隊、鳥蛇隊、大炮隊、 向井蔵人手勢三七三人、
  御番組頭桜庭祐橘天象隊および桜庭手勢二三四人、計六一二人。
 
○新沢口:省略
 
○後備:省略
 
○大葛口:雫石より転用、高野恵吉預り発機隊、方円隊各一小隊、凡二〇〇人、 花輪二番手(長内村駐留)
 
○補充:省略
 
 沢出可禄は、桜庭手勢の中に長臣(どういう身分か役割か知らないが)として鎗 持1人を連れて、岩船寛実、熊谷助右エ門(同じ長臣、熊谷は可禄と同じ戦いで戦 死)と共に参加している。なおこの出陣日記を書いた内藤調一は、同じ桜庭隊手勢 の中に持鎗(鎗持と同じことか)1人を連れて、中津山富右エ門と共に使武者として 参加している。

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