下タ沢会によせて(覚書)

再び沢出可禄のこと

 また横道にそれてしまったが、この出陣日記で内藤調一は沢出可禄の人となりに ついて次のように書いている。  その前にこんなことをいっている。私も先の戦争に行って運よく生きて帰ってき たが、いとこの敏夫も義夫も戦死した。いつの時代も思うことは同じようなものだ と思った。それは、
 
 「軍も止み主公も帰り玉へれハ何んとなく胸中穏になり、此日暮る頃舘を下り 家に入家の醸の濁醪を一盃傾け微酔の余此中の戦の事か心に浮き初メ軍に出る時 ハ生死計られさりしに先ツ生きて家に帰り今更親戚に対面しぬるは予の幸なり可憫 ハ討死の徒なり其多かりし中にも儕輩の者ハ寝食を共にせし事なれハ哀も深く殊に 心栄人に勝れ学ひ事も衆に超たる人々なれハ其行状を略左に記して我子孫に武夫の 事業を鑑みセしめんと思ひ侍る」として。続いて、
 
 「沢出可禄実名ハ吉福故椿庵翁の弟なりしを翁子なけれハ可禄を養て嗣となし翁 亡て其家を継き家令を勤たり某氏を娶て三男二女を生めり長ハ善一郎沢出善右エ門 の嗣となる次ハ早水次ハ精一郎一女ハ辻村磯右エ門に嫁し一女ハ沢出善之助に嫁し 可禄性恬憺にしてしかも兵法を兄賢良翁に学び砲術を好ミ初め萩野流を賢良翁に学 び又同流を旧幕臣安田壮輔翁に学び又同流を桜井起雲翁に学びてその蘊奥を究め小 銃ハ百発八九十中し又百目の大砲を膝台にして打に打毎に的中せり火箭炮烙等の仕 掛物も其妙を得たり屡中将の公の覧観に出て其技を呈したる公ミることに善しと称 し或ハ御前に召て其技機を問れ或ハ物を賜りて褒賞すること屡なり今茲慶応戊辰九 月二日四十七歳にして討死しその技を原野の煙と共に消しハ誠に惜むへきなり。」
 
 ということで、その死を惜んでいるわけですが、これとは関係ないが、我が金掘 部隊も食糧運搬などもしたようだから、これと関連して、ついでに書くと、この出 陣日記の八月九日の項に、今どきの若い者は、とはいってないが、次のような記事 がある。
 
 「……葛原と猿間の間なる米白川辺の野原に宿りぬ予も此の夜の役目とて此野に 宿りぬ暫しありて兵糧贈り来れハ終日の合戦に気の疲るゝより腹のすいたるまま人 の頭の大きさに掬ひたる丸飯一つを取って食しに半は生米交りにして菜は生味噌な れハ今まて治世に馴れたる弱武者の中々給やられぬ程なれハ大事の時の用意とて母 御カ持せて腰にある一と握りを取出し此夜の飢を凌きけり此時小荷駄処を白根に建 て田頭氏司して兵粮を炊き長サ弐尺余り横幅五六寸の箱或ハ竹篭を数多作りて是を 入送るなり一日壱人ニ米八合味噌三拾匁塩二勺の積りといふ……」

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