下タ沢会によせて(覚書)

戊辰戦争

 といっても私達は、戊辰戦争のときはどうだったなどという話しは、一度も聞い たことはないので、小学校などの歴史の時間に戊辰戦争のことは習っても、そうい うことがあったか、ぐらいで、下タ沢はどうであったか、などとは夢にも思わなか った。が、田郡、元山、赤沢、獅子沢など尾去沢の金掘りにも、みな動員されてい るようだし、下タ沢の勢沢の川原に集合、などという記事もある。また各部落の盆 踊りの太鼓も、いくさの合図に使われているようだ、となれば、下タ沢会のとき修 理した私達の太鼓も、持歩きに手頃だというので真先きにかつぎ出されたかもしれ ない(ただし製作年代もわからないので、それはどうだかわからないが。)。
 
 戊辰戦争といえば130年も前の話しで、私達には関係ない昔のことと思っていた が、考えてみたら私達のオジイさんの時代のことだ(私の父は明治22年生れ)。そ れにしても、私達の親達から何んにも話しを聞いていなかったろうか。南部は賊軍 で負け戦さ、しかも明治になると秋田県に編入されたし、この戦さに下タ沢から行 って(行った人があるとしても)戦死した人もいなかったので、自然に忘れられて いったのかもしれない。
 とはいっても、このときは、てんやわんやの大さわぎだったと思うので、この戦 争に少しふれてみる。
 
 この戊辰戦争のことは、鹿角市史に書いてあるし、花輪や毛馬内方面の人達の残 したいろいろな関係文書もあるようなので、くわしいことはそちらにおまかせとし て、鹿角市史の資料集として出された阿部恭助(山方の阿部佐一郎の祖父)日記に、 この時の様子がくわしくか書かれているので、その中から私達に関係ありそうなとこ ろを抜き出してみる。
 
 先ず始めにこの阿部恭助日記に書かれた、安村二郎先生の解題より、この戦さの 概要をみると、
 
 「5月16日、鎮撫副総督沢三位卿と薩長筑三藩の人数およそ500人が、津軽へ向うた め大館に宿陣した。津軽藩との折衝が成らず、副総督一行は10日後、川舟で能代へ 移動するものの、その間秋田藩の人数を加え、鹿角へ押通るとの風聞がもっぱらと なり、鹿角では騒然たる空気のなか、急遽実戦体勢をとることとなった。尾去沢銅 山は直接藩境に接することから、土深井口での戦闘と、三ツ矢沢村間道からの侵入 を想定し、支配人主役手代から三沢金工諸働など、約600人におよぶ動員組織の編成 を行った。『日記』の記事は、その際緊迫した状況とあわただしい藩役人の往来、 花輪出張銃隊の動きなど克明に伝えているが、いったん非常の場合には、銅山の金 工諸働、大工、手子と日々地底の敷内にあった過酷な労働に耐えている人々までが、 戦場に駆り出される不条理さは、耐えがたいものを覚える。
 
 戊辰戦争、いわゆる秋田戦さは、8月10日の記事の「昨9日明け方、花輪よし(よ り?)楢山佐渡土深井へ、石亀左司馬下モ新田すばり合(アイ)双方より打入、毛 馬内より桜庭祐橘軍勢、即日合戦に相なり、昼湧上りへ上り見分した処、三哲森よ り十二所平内まで焼打となり、火煙夥(おびただ)しく大炮音かまびしく、味方大 いに御勝利と見え候」に始まる。
 8月12日「銅山人数、大葛口打入にて出陣、兵士田郡8組、元山8組、赤沢7組、獅 子沢3組都合26組286人、持賦り(もちくばり)人足を加え330人余に相成り」、大葛 を占領、しばらく滞陣した模様。8月18日「銅山人数の出兵、下新田口へ元山5組、 田郡5組、吉沢口へ赤沢2組」。8月19日「下新田出兵人数10組残らず一本栗ノ木陣 替」。8月21日「今暁一本栗ノ木へ尚又三沢より4組宛繰出し」、「今日大葛へ打入 残らず焼払う。三沢工兵3組山神堂に陣取り、その他は畑長根に本陣を構える」。 大館城攻略の翌8月23日、銅山勢は大葛口より扇田大滝に出て、銅山へ帰陣。お祝い に酒肴を頂戴し、明1日休息し明後日より出精相働くよう、申し渡されている。
 当初優勢であった南部軍は、8月29日増援の肥前佐賀藩小城藩兵と対戦、前山、今 泉の戦線で敗退した後は後退に次ぐ後退を余儀なくされ、9月に入り大館放棄、敵陣 はわが藩境間近く迫るに至った。
 『日記』は再び銅山からの人数繰出しを伝え、9月2日「下モ新田空虚に付田郡元 山より三組宛出兵」。9月3日「人数増強の命令にて、下モ新田へ元山5組田郡2組、 吉沢へ田郡3組赤沢5組」。ほかにも兵粮輸送等に当る銅山各組の動静が記されてい る」。

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