下タ沢会によせて(覚書)

新通洞新時代 − 下タ沢は楽しかった −

 ともあれ、新通洞のできたということは、下タ沢にとっては一つの新しい時代の 夜明けであったかもしれない。元山が大火で消滅した後を考えれば、夏場はなんと かなるとしても、冬場はどうしたろう。学校に行くにしても、病院に行くにしても、 今はやりの言葉でいえば、陸の孤島といったところだったろう。それが新通洞ので きたことによって、一番難儀だったろうと思われる冬の山越えをしなくてもよくな った。元山が無住の地となる頃は、新通洞はできていた。私達の時代は、新通洞と 共にあった、といえば少し大げさだが、そんな気もする。その新通洞もまた鉱山と 運命を共にして閉じられてしまった。
 今、下タ沢に行ってみようて思へば、また昔にもどって十二所花輪線まわりで行 くよりないが、それでも今は冬でも自動車で途中(下新田の上み、下タ沢の分れ口) まで行ける。といっても、冬に行くこともないが。
 
 それにしても、家が十二・三軒よりない小さな部落、狭い沢の中であっても、そこ が親代々暮らしてきた私達のふる里だ。今は差別用語だといわれ、部落という言葉 は使っていけない、といわれているが。
 
 尾去沢でも前は何々部落会といっていたが、今は自治会といっている。私は、こ の自治会という言葉に未だに、あまりなじめないでいる。それは生活していくため の人の集り、人だけの組織といった感じで、そこからは辞書にもいう、部落とは地 縁団体という地縁、土地との結びつきが抜けている、そんな気がする。
 ふる里とは、山あり川あり、それを友として、そこを生活の場として、その山や 川と一体となって暮らしてきた。それがふる里であり、そこを私達は、自分達の部 落といい、郷土といってきた。
 
 今は部落という言葉は、集落(聚落)などといいかえられているが、集も聚(し ゅう)もあつまるとか、あつめるとかいう意味があって、その説明をくわしく読め ば、それでいいか、という気にもなるが、やはり集落といえば(私は)単なる人の 集りといった感じが強くなって、私達の生活の中から土台が抜けている、土が無く なった、そんな感じがする。
 今、自治会といおうが、部落会といおうが、その活動している中味はなんら変り はないわけだから、それでいいわけだが、そこが古い頭の切り換えのきかなくなっ たところだと思っている。
 
 そういった気持もあって、私は今まで何度も部落という言葉を使ってきたが、そ の度毎に何にかいい言葉はないかと考えたが、思いつかないので、そのまま使って きた。私達には差別語としての考えは全くない。私達の心にあるのは、自然の中に 包まれて自然と一体になって暮らしてきたふる里、郷土としての部落という言葉で ある。
 
 さて何にをいおうとしたのか、支離滅裂のこじつけになってしまったが、ただ私 のいいたかったのは、私達にとって部落という言葉は、絶対に差別語ではなかった、 ということを強調しておきたかっただけである。
 それはそれとして、新通洞な熊が出ようが、下タ沢に下りてこようが、私達が住 んでいた頃の下タ沢での暮らしは、楽しかった。

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