下タ沢会によせて(覚書)

六代目忠右衛門は武術の達人?

 ということで、また元にもどって六代目のことを書こうと思ったが、二代目半蔵 のところで、銅山の検断など仰付かった、とあるが、この検断がどういう職務かよ くわからなかった。そこでまた広辞苑を引いてみた。
○検断:@中世、警察権・刑事裁判権のこと。またそれを行使すること。A近世大庄 屋(おおじょうや)に相当する役。
 とあり、わかったようなわからないような気分。次は何にからみつけ出したがわ からなくなったが、
 
○検断(けんだん):宿老(おとな。町名または老名ともある)。各町村には村肝 入であって、明治2年10月頃まで続けられた。
 検断、肝入はいずれも所轄代官の配下に属し、任免も代官の権限内にあった。し かし辞令を用いた様子はなく、任期も定まっていないようで、多くは各町村の名家 がその役に当っており、事故のない限り終身職であったように考えられる。検断は 町を、村肝入は村をそれぞれ代表し、町民百姓等の下意を代官に上申し、幕府又は 藩の上意は代官より検断、肝入を通じて町村民に下達された。又その補佐的なのが 宿老である。
 検断はまた、市中取締りもし、理非を調べる役でもあった。
 
 ということで、少しわかったような気もする。沢出家の二代目は、尾去沢におけ る警察も握っていたということになる。
 ついでにわかったふりして、わからないのが「奉行」、時代劇だろうが、歴史の 本だろうが、いつも出てくる。日常茶飯事といっていい程、使われている。何にを 今更そんなの常識だとわらわれると思うが、さて奉行とは、と改まって聞かれると 咄嗟の返事につまる、ということで恥をしのんで辞典の世話になることにした。 ○奉行:@上命を奉じて事を執行すること。A武家の職名。政務を分掌して一部局 を担当する者。江戸時代では勘定奉行・寺社奉行・町奉行など。
 これで安心して時代劇も見られるし、鍋奉行もつとまるというもの。今でいえば、 局長、部長、長官といったところか。
 
 さて話しは長くなったが、六代目忠右衛門のところに、こう書いている。
 「剣術戸田流西田猪助門人に相成極意免許居合術皆伝巻物有之、柔術棒共不変流 原田武左衛門門人に相成り免許秘伝書有之。以上沢出家由緒伝聞書写し。
 
 ということで、寺岡さんの沢出家由緒書は終っている。これによれば、六代目は 武術の達人ということなかるが、ではその道場はどこにあったろうか。元山にも田 郡にも剣道の道場があったなどということは聞いたこともないし、と思っていたら、 「鹿角のあゆみ」に栗山文一郎さん(故人。獣医さん、紫根染・茜染の伝承者)の 書いた「近世鹿角の剣術 − 山口流の人々」というのをみつけた。それによると、
 「……たまたま流派八代目に当たる西田猪助が文化年間全国武者修行行脚の途次、 銅山見学がてら尾去沢に立寄り、山相家川口与右衛門と肝胆相照らす仲となり、し ばらく滞留する」
 ということで、川口家出身で毛馬内に養子に行っていた浅沼郷左衛門とその友人 で共に力量伯仲の間柄にあった勝又善左衛門の二人が尾去沢に出かけ、西田猪助の 門に入り、数年腕をみがいて、奥義皆伝免許ををうけ、それぞれ毛馬内で門弟を養 成するようになったという。
 
 文化年間(1804〜18)といっても、15年くらいあるから、そのいつの時点かわか らないが、川口与右衛門が西田猪助と意気投合して道場をつくったと思うが、そ の場所もわからない。もしかして田郡あたりに道場屋敷などといい伝えられている 所があるだろうか。その場所はわからないとしても、この浅沼、勝又といった人達 と一緒に剣道の修練に励んだものと思われる。六代目の次男の源佐久は享和3年 (1803)生れというから、六代目も30代の血気盛んな頃であったと思われる。
 文化元年(1804)にはロシア使節レザノフが国交通商を求めて長崎にきており、 翌二年(1805)には華岡青洲が全身麻痺による乳がんの摘出手術に成功している。 それはそれとして、このあたりから幕末の騒然とした時代に入って行く(黒船が来 たのは、それから約50年後の嘉永6年(1853)である)。
 ただ沢出家文書では、西田猪助は戸田流となっているが、山口流も戸田流も日本 を代表?するような大きな流派ではないようなので、その辺のつながりは、私には わからない。

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