下タ沢会によせて(覚書)

元山神社のこと − 蟹沢に建立 −

 ということで、元山神社は出来たわけですが、なお私がはじめにいった疑問がと けなかった。
 ところが、このコピーにもう1枚「由緒」というのがついていた。それは原稿用紙 に書いたもので、この原稿用紙の欄外に小さく「秋田県神社名鑑原稿用紙A」と印 刷されたもので、次のように書いていた。
 
由緒(これは印刷されていた)
 慶長年間南部重左衛門の創立と云う言傳へがあるのみです。正徳六年旧領主にて 再興され、昔より尾去沢鉱山の産土神として祭られ、明治六年村社に列せられる。 明治四十年一月神饌幣帛共進神社に指定せられ、明治四十四年尾去沢の各部落に有 った無格社九社を合併し、昭和七年神社名を、村社両社山神社と改称す。本神社は 大正十四年四月十九日全焼せしため、鎮座地を三ツ矢沢元山より尾去沢地内に移転 せしが、其の際跡地を同神社末社境内地(飛地境内地)として小祀を建て、地元の 旧田郡地区の人々百戸にて祭事を続けてあったが、昭和十六年六月六日氏子の人々 が旧元山神社の祭典を執行し、此の際氏子の一人であった佐藤某氏の寄進にて現在 地を購入し、現地に神社を建て、元山神社と名付けて崇敬し、祭事を続けて現在に 至る。
 
 ということで、上記の文には三ツ矢沢元山とか、旧田郡の人々とか、若干気にな る表現もあるが、要するに大正14年に元山の山神社が焼けて、町の方に移ったので、 その跡地に元山関係の人達が小さい社をつくって、元山神社として拝んでいた。そ れを蟹沢の方に移して、下タ沢の稲荷さんも合祀して、元山神社として再建した、 ということで一応納得となった。
 ただ上記の由緒書きは、元山神社を再建したときに、神社庁に提出したものか、 或いはこの原稿用紙にもあるように、秋田県の神社名鑑をつくるときに出した文書 なのがわからないが、現在元山神社の宮司は花輪の幸稲荷神社宮司の奈良修自さん となっているので、再建当時は父親の亮一郎さん(鉱山採鉱課の職員)となるので、 花輪の人だから、山カゲのことはあまりくわしく知らなかったのでは、と思われる ので、三ツ矢沢元山などということは、あり得ることではなかったと思う、これは 私の勝手な想像だが。

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