下タ沢会によせて(覚書)

尾去沢のお寺の移り変り

 さてこの円通寺は、先にも書いたように笹小屋の大慈庵、獅子沢の薬師庵と元山 の元光庵が一緒になって出来たというが、柳舘計一さんの調査によると、「獅子沢 の薬師庵は大正七年に尾去沢鉱山が獅子沢に鉱滓ダムを構築するとき、獅子沢集落 と共に移転することとなった。これに先だち隣接の笹小屋集落にあった大慈庵が、 大正5年12月笹小屋の五徳火事といわれる三方から同時出荷の不審火で全焼したの で、大慈庵焼跡に本尊薬師如来及び堂宇を遷座し、二庵合同の仏堂として再建」し たという。そして「この庵寺を大盛寺と呼んでいた。しかし堂宇が老朽化したので、 昭和11年10月(中沢ダム決潰は翌11月20日)現在の円通寺の場所に移転新築され た。もともとの笹小屋の大慈庵の場所は現円通寺の坂道下登り口の朱色の橋(大 円橋)のあったあたりといわれいる。
 長泉寺由来記によると、今の道路のところ(現在の大円橋の前の道路)に西道口 (現下モ平)から庵寺を移し、大慈庵と号し、本尊釈迦牟尼仏を奉安し、比丘(男 僧)比丘尼(尼僧)をおき、連綿と続いてきたとある。
 この場所から旧大盛寺跡に移転したのは、明治36、7年頃のことで、尾去沢鉱山で 道路を通すため(下タ中沢方向に通ずる道路を造るためと考えられる)で、庵主柳 沢禅応老僧の時で、移築は鉱山で行った。その後、大正5年12月火災により全焼した のである。」ということである
。  
 大慈庵が西道口から移ってきた場所と、五徳火事で焼けたときの場所の関係がよ くのみこめない。これはダム決潰後の復旧作業で土地の様子が若干様変りしている ことと、私は下タ沢育ちなので、高等科(昭和10年〜)になる前は、親に連れられ て何度か通ったことはあると思うが、何んにも記憶に残っていない。いつかもう一 度教えてもらいたいと思っている。
 
 ともあれ、この大慈庵が西道口から笹小屋に移転してきたのは、何時頃のことだ ろうか。その本寺である長泉寺の創建は、慶長18年(1613)であり(大坂落城の2年 前、この戦さに南部重左衛門が参加している。)、大慈庵は寛永2年(1625)とあ る。本寺が出来て12年ということになるが、その時今の下モ平の地に建てたのだろ うか。1625といえば、まだ西道金山や五十枚が盛んだったと思われる。

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