下タ沢会によせて(覚書)

私達の本籍

 さて尾去沢の歴史の中に、尾去沢とか下タ沢とかいう地名が出てくるのはいつ頃 か、という話しから、学校の話しに飛んで長々と書いてきたが、ここらでまた元に もどることにして、

 要するに下タ沢は、元山の一部として発展してきたわけだが、私達(相馬家)の 本籍も、明治以前のことはわからないが、古い謄本を見ると、明治のはじめ頃は元 山に住んでいたと思われるが「秋田県鹿角郡尾去沢鉱山二百七十四番地」、明治の いつ頃からか「秋田県鹿角郡尾去沢村尾去沢鉱山二百七十四番地」となり、いつ頃 下タ沢に移ったかわからないが、次は「秋田県鹿角郡尾去沢村尾去沢鉱山字下タ沢 六番地」となっている。昭和11年の町制施行後は「村」が「町」に変り、昭和47年 の町村合併まで続いたと思う。町村合併後は「郡」がなくな「市」となり、尾去沢 鉱山が抜けて「鹿角市尾去沢字下タ沢六番地」となり、私は軽井沢に移った後も、 本籍地を動かしていないので、今でも下タ沢六番地である。
 わかりやすくいえば、私のおじいさんの時代は、鹿角郡尾去沢鉱山二百七十四番 地で、母の時代になってくると、明治22年に尾去沢鉱山は尾去、三ツ矢沢と合併し て尾去沢村となるので、このときから郡と鉱山の間に尾去沢村が入ったものと思わ れる。それにしても、鉱山の次にいつ、字下タ沢が書き入れられたかわからない。  いずれにしても元山の地名がない。それで思い出したが(前に書いたような気も するが)、麓さんの鉱山史に、貞享4年(1687)請負師治兵衛に与えた証文の中に、 西道の内、尾去沢、田郡、鹿沢、赤沢の四ケ山といっているが、尾去沢とは開発の 過程から察して横合と呼ばれた元山をいったのではあるまいか、という記事がある が、それから押して、といっても200年も後のことになるが、壬申戸籍をつくると き、尾去沢鉱山といっても、もとは元山のことだから、あえて元山とつけなくても、 尾去沢鉱山何番地でいいんだ、となった(死人に口なしで、私のあて推量もここに 極まれり、ということか)。それにしても、田郡、赤沢、獅子沢、笹小屋などの所 番地はどうなっていたろうか、みんな尾去沢鉱山の次に田郡とか赤沢とかついてい れば、私の当て推量も当り、となるわけだが。ともあれ私は不在地主ではないけれ ども、ふる里と頑張って、下タ沢を守っている。

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