下タ沢会によせて(覚書)

もう一つの消えた学校 − 青年学校 −

 なお、私達年代のものにとって、忘れられいものに青年学校がある。夜間部が 主体であったと思うが、昼間部が2年まであり(女子の一緒)、高等科を卒業すると 上の学校に行くか、就職したもののほかは、大体この昼間部に入った。これを卒業 すると鉱山に就職できたような気がする。
 この青年学校は、小学校卒の勤労青年に産業実務教育、普通教育および軍事教育 を実施するため、昭和10年(1935)4月1日の青年学校令の公布により、実業補修学 校と青年訓練所を統合して、全国市町村に設置され、約17,000校が発足したという。  昭和14年(1939)に男子の義務制を実施し、軍事教育を重視したが、戦後の昭和 22年(1947)廃止された。
 尾去沢鉱山には昭和13年(1938)3年生以上を対象に「尾去沢鉱山私立青年学校が 設立された。校長は所長で、その下に専任教員として阿部与四郎(昼間部の先生を していた)、鉱山労働課の職員で高橋清左衛門という陸軍少尉がおり、各学年毎に 軍事教練担任の鉱山職員の将校や除隊した下士官がいた。その他の教育には、大学 出の若い職員が当った。
 毎日就業時間が終ると2時か3時間、教練や学科があり、休むのは日曜だけだった 気がする(中1日休みがあったろうか)。一応5年生までで、卒業しても研究科があ り、つまりへ兵隊に行くまで、行かなければならなかった。
 校舎は鉱山の本事務所の向いに新築され、職員室と教室が三ツあったと思う。学 校廃止後は鉱山労働課などの事務所として使われたり、傍系会社の事務所になった りしていたが、平成3年9月の台風19号によって、屋根、窓などが大破、取りこわさ れてしまった(同様に高山事務所も大破、クラブの上みの方に事務所を新築移転し 解体されてしまった。)。

 私達は今は、殆んど履歴書を書くこともなくなったが、書くとしても学歴のとこ ろは高等科卒で、青年学校卒と書く人は程んどいないと思う。書いてみたところで、 今の人にとっては、それは何んだ、となるだろう。これもまた戦時中に燃え上がっ た線香花火のように、軍国主義と共に消えていった学校ということか。

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