下タ沢会によせて(覚書)

昭和47年という年は? − 何にがあったか −

 という前に、明治22年は新しい町村制になったといったが、尾去沢も尾去村、尾 去沢鉱山、三ツ矢沢村が合併して新しい尾去沢村の誕生となり(この体制が鹿角市 になるまで続く。外の町村はそれまで何度か合併をくり返している。)、人口は 3,811人、戸数は606戸であったという。現在尾去沢の人口は約3,660人、戸数は 1,390戸程で、戸数は2倍以上になっているものゝ、人口は新しい村になった110年程 前を下まわっている。
 またこの年は、尾去沢鉱山が三菱の経営下に入った年でもある。また2月11日には 「大日本帝国憲法」なるものが発布されており、翌23年10月30日には私達になつか しい?教育勅語が発布されている(ちなみに御真影 − 天皇・皇后の写真 − は、こ の前後から宮内省から各学校に下付されたというから、学校の沿革史などに何にか 記録があるかもしれない)。

 さて話しは、昭和47年にもどるが、この年はどんな年であったかと、私なりにふ りかえってみると、
○1月24日 横井庄一郎元軍曹が28年ぶりにグアム島で発見され、2月2日帰国、羽田 空港での第一声「恥しながら」が流行語になった。
 というが、私達兵隊に行ってきたものにとってみれば、下士官ともなれば、志願 で軍隊に行った人も多いと思うので、徹底した軍国主義の教育を受け、「生きて虜 囚の恥しめを受けず」の思想もたゝきこまれたと思うので、グアム島でくらした28 年間は、時代の流れと隔絶した戦時の連続であり、戦後28年平和に馴れて暮らして きた世の人達には、「何にを今更、時代錯誤」と嗤われたかもしれないが、彼にと っては「生き恥をさらす」の思がひとしお強かったと思うので、それは時空を超え た真情であったと思う。
○2月3日 札幌冬期オリンピック開催。70M級ジャンプで笠谷幸生(28)、金野昭次 (27)、青地清二(29)の三人が金銀銅を独占、日の丸飛行隊と呼ばれ称賛をあび た。
○2月19日 連合赤軍の浅間山荘事件。
○3月21日 高松塚古墳(奈良、明日香村平田)で極彩色の白虎や青竜の描かれた壁 画が発見され、7〜8世紀の中国・朝鮮・日本を結ぶ壮大なロマンをかきたてて、「古 代史ブーム」を招く。
○5月15日 沖縄の施政権が返還され、沖縄県が発足する。
○6月1日 運転免許取得1年以内の者に若葉マークとり付けが義務づけられる。
○7月5日 田中角栄、自民党総裁となり7日首相。
○9月29日 中国を訪問、周恩来首相と日中共同声明に調印、日中国交回復。中国よ りパンダが送られることになる。
○11月5日 中国から送られたパンダ2頭、上野動物園で初公開されている。

 以上、私の記憶に残っているようなことを書き出してみたが、外にもいろいろな ことがあり、大蔵省が紙巻タバコの箱に「吸いすぎ」の注意を印刷することを決定 (4月20日)したのもこの頃であり、タバコの吸いすぎ、若年層の喫煙などが問題に なり、やがて禁煙権などに発展していくのも、この年あたりかもしれない。そうし た世間の動きは別として、この年は先にも書いたように、明治7年にはじまった私達 の母校、いわゆる「山かげ」の学校が途中二度の休校(明治15年と18年)を含めて 99年間、およそ一世紀の歴史を閉じた年であり(先に98年と書いたのは、人間でい えば満の数え方。こんがらかった。)、と同時に、笹小屋に開校した又新学校から はじまった尾去沢小学校が中沢(というより、笹小屋といった方がいゝのか、この あたりから円通寺にかけて中沢地番となっている)といわれる場所から、上山に新 築移転した年であり、また4月1日尾去沢は、八幡平・花輪・十和田と合併して鹿角市 となり、尾去沢鉱山が三菱金属株式会社より分離独立して尾去沢鉱山株式会社とな った年でもある。
 いわば私達の人生にとって、といえば少し大げさだが、一つの時期を画す忘れら れない年であった、と思う。

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