下タ沢会によせて(覚書)

元山から田郡へ学校移転

 話しはまた横道にそれたが、こうして明治32年に新校舎ができたが、その後益々 生徒が増加して手狭になってくる。明治32年に166名(当時は4年生まで)であった ものが、明治36年には231名になっている。そのため1・2年生は2人用の机腰掛けに3 人を座らせたという。控所(現在の体育館・講堂。私達も控所といっていた。三ツ矢 沢小学校に移るまで、そういっていたろうか)も非常に狭く、200人に対して7坪で あったから、休み時間も教室にいなければならず、特に雨の日や冬は外に出て遊べ ないから大変だったようだ。それで田郡にあった校舎を、仮分教室として2年生を移 したという。
 ということで増築を村会に申し入れたが、受けいれられてもらえなかったという。

 こうして明治39年に至り、もう我慢の限界というところだったろうか、「当校南 方の教室は、構造不完全にて年を追い危険の度を増すを以て本日(4月12日)修繕に 着手、壱週日にて竣工せり。此の工事中、当学区内より人夫拾六人寄付ありたり。」 ということで、緊急修繕を行っている。
 翌「明治40年11月1日、本校校地を田郡に変更の可否郡長より諮問せられ、本村会 にて満場一致を以て之を可とし、直ちに答申せり」ということで、いよいよ田郡に 移ることになる。
 こゝで私が一寸首をひねったのは、普通は下から上にだんだん伺いをたてゝいく と思うが、この時は上(郡長)から下(村会)に諮問している。当時の制度を知ら ないから、それはそれでよいとして、田郡から中新田に学校を移すときは、場所を どこにするかで、喧々諤々の議論があったようだが、この元山から田郡に移すとき はどうだったろうか、三ツ矢沢学校史はそのことについては何にも書いていない。 元山の人達は「ハイ、そうですか。賛成」とすんなり決っただろうか。

 ともあれ、こうして元山から田郡に移転することになったわけですが、その一連 の流れを三ツ矢沢学校史より抜書きしてみると。
○明治40.4.1 田郡に移転することを村会で可決。
○〃 41.4.9 校舎新築のことに決定。
(この時に「通学困難ならざる故を以て、三ツ矢沢分教室を廃することとなし、其 旨本年3月31日申請せしに、本日秋田県指令教乙第680号を以て認可ありたり」とい うが、私達は三ツ矢沢に学校があったことすら知らなかったが、この学校史によれ ば、明治18年三ツ矢沢巡回授業場開設、就学児童数7名、教員佐藤伝吉。明治20年4 月、三ツ矢沢分教室(尋常)1年18(男)、教員は傭菅原武治、とあるのみで、ど のように運営されていたものか、三ツ矢沢のどこかもわからない。
 ちなみに田郡分校についてみると、明治10年1月24日、田郡49番地の建屋を買収し て設置、明治17年尾去沢鉱山小学校田郡分教室、明治18年、中等科5名、初等科11 名、明治20年4月、(尋常)1年12名(男)、3年7名(男)、4年3名(男)とあるの みで、その後の動きはわからない。)
○〃 41.5.1 校舎新築認可。
○〃 42.4.27 新入学児童授業開始したが、1学級教室不足ため元山奨学会場を借 りて第3学年を入れる。
○〃 42.6.24 校舎新築の都合上、これまで2学年を入れていた田郡の旧校舎及現 在の校舎をこわすことになり、第1、第5、第6学年は元山奨学会場に、第3、第4学年 は田郡観音堂(田郡のお寺)に入れて、二部授業とし、第2学年は田郡山神社で授業 することとした。
○〃 41.10.25 新校舎竣工、工事者との受渡しが終る。
○〃 41.10.29 新校舎の移転、授業が始まる。
○〃 41.11.3 新校舎に移転授業を開始したことを届出る。
○〃 42.6.1 新校舎開校式を挙行。
 なお、新校舎で授業をはじめて、この間約7ケ月あるが、何等かの都合で正式の開 校式をやれないでいたのかもしれない。

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