明治24〜5年の話し。教科内容等はともかくとして、学級は70人以下1学級、70人
以上140人までを2学級とし、70人以上でも100人以下は1学級としてもよいとされた
という。今にくらべても1学級の人数ははるかに多く、当時の教師は相当の苦労があ
ったものと推察される、と。そんな事もあって教師は、鞭を使ったが、それは地図、
図表使用とも関係があるけれども、威嚇にも使われたようであると、これは私達に
も身におぼえがあるが、面白いのは、といえば語へいがあるが、当時授業は1日5時
間授業で、その1時間は、線香1本の燃える時間とした。生徒達はその線香をちぎり
折って短くするので、教師は困らされたようであると。いつの時代も悪童は絶えな
いものだと思った。それにしても、いつまで線香の授業が続いたろうか。私達の頃
(昭和4〜9年)は、職員室の角の廊下に、消防の火の見やぐらに吊してある半鐘の
ような鐘が吊してあって、時間になると用務員さん(その頃は学校の小使さんとい
った)が片手(右か左か忘れたが、片方の手がなかった。川口さんといった。)で
ジャンジャンと叩いた。
鞭の話しで思い出したが、私達の同級生(高等科のときの)に西道口の方からく るのがいた。西道口や尾去の方には、何竹といったか忘れたが、長くするっと真直 に伸びる竹があった(私達はそれで紙テッポウをつくった。元の小学校やこの近辺 にもあるが、いゝものはない。)。それを授業に使うムチに持ってくる。授業にも 使うが、それでビシビシ叩かれる。もちろん持ってきた本人も叩かれる。しばらく すると、割れて短くなる。と、また新しい竹を取ってくる。後年同級会などやると、 よくその話しが出て、自分で叩かれる竹を、自分で取ってくる、と大笑いしたもの だが、その頃は暴力教師だ暴力事件だと表立ってさわがれる(あったかもしれない が)こともなく、叩かれる本人もその親も悪いから叩かれるんだと割切っていた、 というか、古きよき時代であったかもしれない。 さてそのジャンジャンの半鐘は、いつ頃からいつ頃まで田郡の学校で鳴っていた ものか、皆さんの思い出をつないでゆけばわかってくるかもしれない。 |