下タ沢会によせて(覚書)

下タ沢のこと・尾去沢のこと・御銅山のこと

 それはそれとして、話しはまた前にもどって、五十枚金山とか西道金山が発見さ れた頃は、まだ尾去沢という地名はなかった、というが、それではいつ頃からとな ると、漠然としているようだが、菅江真澄や松浦武四郎、上山守古(扈従日記)な どが来たのは、いずれも幕末の頃で、それ以前にも藩の役人とか、幕府の巡検使な どいろいろ来ているようなので、先に書いたかもしれないが、拾い出してみると。

 先ず下タ沢の名が出てくるのは、宝暦11年(1761)7月「公儀御巡見衆榊原左兵衛 様御通行に付御答書上写(御答書上とは、巡見使の質問に対する銅山役人の答弁内 容を書上げたもの)」に、
一、何々と箇条書になっている、その三番目に、
 「横合坂ノ下口中荷替鋪間数600間程、金場有り、小屋数八十軒程、人数四百四十 四人程、壱日出ノ(ハク)3斗6升程、惣山中にて日々出ノ(ハク)七斗2升程、鋪口 豆腐鋪、千荷鋪、本鋪、下タ沢大剪鋪」とある。

 また尾去沢銅山の改革は「明和2年(1765)10月23日坂牛新五左衛門に対し、”御 銅山御用向新五左衛門え御在せなされる旨”仰付けられたことに始る」という。銅 山は御手山として名実共に藩の直営になるに及び、従来の銅山奉行は廃され、勘定 頭の内から「御銅山御用懸」が任命されることになり、坂牛新五左衛門が抜擢され た」という。

 新五左衛門は11月3日登山し、翌4日山内一同へ御手山となった趣意や心得べき条 々を十八項目にわたって厳粛に申渡している。その初めに尾去沢鉱山は御手山とな り、以後は「御銅山」と唱えるべきこと、といっている。

 さて、それから23年後の天明8年(1788)幕府巡見使藤沢要人等のきたときの 「御答筋抜書(巡見使の質問事項を予想して書き出した答案集ともいうべきもの)」 というものがあり、これも、
一、何々と29項目あるが、私達に関係ありそうなところを書き出してみると(数字 は、わかりやすいように便宜上私がつけた項目の順番)、

4、銅山は明和二年(1765)より直山にした。金銀山30年以前まであったが、その 後鉱躰が絶えたので働いていない。
5、山内惣人数は1,800人程、元山小屋数60軒余、山中惣小屋数250軒数、外沢笹小 屋小屋数80余軒である。
6、出ノ(ハク)数1日8斗程、内3斗7〜8升程赤沢、2斗5〜6升程元山、1斗6〜7升程 田郡。
●、これを先に書いたように1升平均33貫として計算すると、1斗で330貫、8斗で 2,640貫、Kに直すと×3,75で9,900Kで約10T、閉山まで使っていた1T鉱車で10台 (この計算合っているのか、自分でピンとこない)。
7、1日の出銅、百斤入り12〜3箇出しているが、山模様の善悪により増減があって 定め難い。
●、また計算してみると、1斤は160匁で16貫×3.75で60K、×12箇で720K、1日の出 ノ(ハク)数は10Tとして品位は7.2%となる。そういう計算にはならないかもしれ ないが。
 尾去沢の閉山時の最低採鉱品位は0.7%だった。もちろん銅の値段との関係もある わけだが、それすら確保できなくなって、とうとう閉山となった。

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