といっても、銅を運んだ頃の話しではなくて、私達が子供の頃の話しだ。秋の10
月頃花輪の下もの方に糶(せり)市場が立った(正しくは何んといったか思い出せ
ない)。私の父はそこへ云って、その春生れた仔牛を買ってきた。それを一冬家に
おいて、春になると牧場に連れて行って放して、秋になるとそれをセリに行って売
って、そのお金でまた仔牛を買ってくる。そんな事を繰り返していた。いつかセリ
に連れて行ってもらって、暗くなってから仔牛を連れて、坑内を通って帰って来た
ことがあったような気がする。坑内はそういう動物を通してはいけない、といわれ
ていたような気もするが定かでない。であったとしても、暗くなって人も通らない
から、内しょで(山をまわるのが大変なので)来たのであったかもしれない(セリ
をやったところは、馬検場といったかもしれない)。
坑内にはいろいろな禁忌(きんき)があったようだが、私達はよくしらない。た ゞ、坑内では口笛を吹くな、手をたゝくな、大きな声で歌うな、ともいわれたよう な気がする。また鈴木勝見さんは、こんなことをいっていた。 「坑内ではタガネとタガネを合せて音を出してはならない、といわれた。昔は坑 内で死者が出たときはタガネでタガネを叩きながら死者を外に送り出したことによ るためと言われている」と。 また死者は坑内を通さなかった。これはお互いに固く守られていた。山かげの人 達は、鉱山病院や花輪の病院などで亡くなると、必ず山越えをして行った。 仔牛の話しが坑内の禁忌の話しになったが、尾去沢の牧場は、五十枚から水晶山 にかけての峯の裏側にあった。その範囲は知らない。その牧場に牛を放す日は、何 日なのかも知らなかったが、昭和50年頃は5月15日の山神さんのお祭りの日が、牛を 放す日だったようだが、三ツ矢沢の方にも牛をおく人が次第にいなくなって、20年 くらい前に牧場が廃止されてしまった。 夏になるとアブがうるさいのか、製錬の煙突の上の方の山に出て来てモーモー鳴 いたり、夜事業所の方に下りてきて、べたべたご馳走をおいていったのもなつかし い思い出だ。 下タ沢で牛をおいたのは、私の家のほか、芳一さんの家でもおいたような気がす るが、ほかはよくわからない。 |