下タ沢会によせて(覚書)

松の根っこを燃やせ − 再び松根油のこと −

 こうして私達のシベリアの生活がはじまったのはいゝが、夜になれば暗くなる。 当り前の話しだが、何分にも電灯もなければローソクもない。ストーブの燃える明 りを頼りに食事をするという状態だった。それで誰か物知りか知恵のまわるのがい たんだろう、焼け残っていた松の根っこを取ってきて、それを細かく割って(チョ ウチンにつけたローソクくらいの大きさ、今でいえば5号ローソク)、缶詰め空缶な どを見つけてきて(人家はなかったが、少しはなれたところにロシアの囚人とかい われる人たちがテント生活をしていたし、駅に出れば人家もあった)、それに入れ て火をつけた。そこまではよかったが、油煙がものすごく出るので、テントの内側 はたちまち真黒にすゝがついて、さわられなかった。お互いの顔も特に冬はろくに 洗わないので、ニヤッと笑えば、歯だけが異様に白く見えたものだった。

 そこで話しは、戦時中坑内の明りの松根油を使った話しにもどるが、その小学校 の先生は30前後の若い先生だった。案外松の伐根のことをよく知らないで、松の根 っこを燃やしたという話しを、松の根っこ = 松根油と思いこんでしまったのかも しれない。何人もが一緒に松の根っこを燃やしたら(私のシベリアの経験から)狭 い坑道はたちまちすゝ煙でいっぱいになる、といった感じだったろうと思った。  ということで、下手な経験は、ときに物事の本質を見あやまる、という話し。

 「花輪・尾去沢の民俗」という本の「鉱山のくらし」という中に、「戦時のくら し」として、次のような話しがのっていた。
(三)松の根ッコ掘り
 松根油(飛行機の燃料にする)を採るため、松の根ッコ掘りが大変難儀であった。 役場から割当の通知がきて、家族の人数(赤ん坊も一人として)に応じ、一人当て 二貫目の量が割当てられた。根ッコ掘りのため鍋倉や花軒田方面まで行った。掘っ たものは自分で運んでこなければならなかった。根ッコは赤沢出口のところの工場 まで持って行った。
 割当達成のため鉱山を休んでまで根ッコ掘りに行ったが、とても割当を達成でき なかった。
 松根油の工場を造ると言うので、菓子屋ではカマドの煉瓦を持っていかれた。松 根油は黒いコールタールのようなものであった。根ッコを納めた代金は後で少し支 払われた。松尾繁治(松尾さんは古くからのお菓子やさん(松鶴堂)、現在廃業)

 もう一つ松根油の話しを見つけた。鹿角タイムス(週2回発行)の8月25日号に、 現社長(二代目)の阿部三樹夫さんが、戦時中の生活の思い出を書いた中に、次の ような事を書いていた。

 「傑作は松根油で、飛行機を飛ばすとかで、松の根っこ掘り。松根油は一度配給 されたが、チョコレート色のドロドロで、石油ランプに使ったが、油煙がひどくて ランプのホヤ磨きに泣かされた。傑作はその後のこと。我が家の南西隅に集められ た松根は敗戦後もそのまま放置されていた。
 谷内の春彼岸は三夜、火振りの「オジナ・オバナ」が行われねが、この火振りの原 料は松の根っこだった。松の根の外側の木質は一〜二年で腐り、松油を含んだ芯は 残るから、足で蹴るか、唐鍬でたたけば、子どもでも掘り出すことができた。これ を細かく割って、一度火を付けて燃やすと音を立てて燃え、火遊びの面白さをこれ で知ったのかも知れない。
 松根油を採るための松の根が、我が家の前に集められ、数年の間はこれで「オジ ナ・オバナ」ができ、多少の供養はできたかも知れないが、戦争の役に立ったとは頭 底思えない。」

 という次第で、私が先に坑内の明りに松根油を使ったというのは、先生の思い違 いか間違いだろうといったが、今鹿角タイムスで、ランプの油に使ったというのを みて、ということは、尾去沢でも当然あり得ることだと思い、これは私の負けとい うことになる。また松尾さんは黒いコールタールのようであったといゝ、鹿角タイ ムスもチョコレート色のドロドロといっているが、私は飛行機の燃料にするためと 聞いていたので(当時私は居なかった)、つい透明なサイダーのようなものと思い 込んでいた。

 私達がシベリアで松の伐採(ほとんど赤松で、たまにカラ松があった)をしたと きは、必ず枝焼きをさせられた。松のはっぱはよく燃えるが、最初に火をたきつけ るのが難儀で、焼け残りの松の根っこを取ってきて、それを適当に割ってたきつけ した。時々山火事があったのだろう、焼け残りの根っこがよくあった。割ると中が きれいなアメ色になっていて、よく燃えた。
 私が、戦時中千荷平に松の根っこ掘りに行ったという話しを聞いたとき、千荷平 には松の焼け根っこが沢山あったろうナー、と思った。それは元山の火事(大正14 年4月)は、下タ沢の方から燃えていったというから、当然千荷平の方も燃えたんだ ろうと思った。誰も元山は丸焼け(家が)になったといっても、あたりの山も燃えた とはいわないようだが、家が焼けるということは大変なことで、印象に強く残って も、それこそ、山どころではない、といったことであったかも知れない。

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