下タ沢会によせて(覚書)

坑内の明り

 この世に夜がある限り私達の生活には、明りがかゝせない。ましてや昼なお暗き どころではない、真暗闇の坑内で働くには、明りがなければ仕事にならない。私達 の先祖は、坑内作業にどんな明りを使っていたゞろうか。
 先づ麓さんの本から佐渡鉱山の例を見てみると、

 「慶長年間(1596〜1615)は松蝋燭と紙燭を使ったもので、松蝋燭というのは長 さ4尺8寸5分、粽(ちまき)に似た形のもので、松脂を笹の葉に包んで、ところどこ ろ糸で縛ったものである。紙燭というのは檜を薄く削り、これを縄にない油に浸し たものである。元和年間(1615〜1624)になっても紙燭は使われたが、新たに「釣 ともし」が使われた。釣ともしというのは、鉄製の皿を鉄の枠に嵌め鉄の板に釣っ たもので、正保(1644〜1648)頃までは種油を使用したが、荏桐油が経済的であっ たので、これに代えた。寛政の頃(1789〜1809、明治になる6〜70年前)魚油を代 用した。これは臭気が甚しく油煙も多いので、評判が悪かったにも拘らず、文政 (1818〜1830)に至るまで三十年間も継続されたのは、山方役人が奉行にへつらっ たからだといわれている。文政6年(1823)に、再び荏桐油に代り、弘化4年(1847) また昔の種油を用い、明治に及んだのである。釣ともしの外に坑道引立などでは、 土器を固定さして点燈したものもあった。」という。
 さて尾去沢鉱山ではどうであったろうか。同じ麓さんの尾去沢鉱山史から、

 「佐渡金山の初期においては、紙燭(檜を削った薄い鉋屑のような木片に油を滲 ませたもの)や松蝋燭(松脂を棒状にしたもの)を用いたが、後に「釣り燈し」に 種油をともすようになった。大体これが坑内照明法の進んだ経路であろう。秋田藩 黒沢元重の「鉱山の至宝要録」には「入用(にゅうよう)ならぬ山仕は、油火燈す ことならねば、しの竹など燈す、夫は油火よりも煙強く、弥々煙滞(けむたえ)な り」「是は左にあらず、百年以前は何れの山にても、油火、紙燭等を燈せしなり。 油煙にて、人以ての外よはりしなり。近来は扣竹を明すなり、人のよはり少し、其 の上、扣竹の燈らぬ鋪へは、油火も蝋燭もともらぬ物なり。」といって、油火より 竹を燈すことが優っているとしているが、扣竹とはどんな竹か判明しない。尾去沢 では細竹を乾燥したものを用いている。この竹を燈し竹とよんだ。「鋪入方心得」 には燈し竹の用い方を説いている。銅山附近の郷村から細竹を買入れ、これを釜で 乾燥して用いた。銅山一ケ年の消費高は八〜九〇〇万本に達した。」

と書いている。が、佐渡にせよ尾去沢にせよ、わかったようなわからないような気 分だ。そこでそれがどんなものだったか、わかる範囲で(私が)調べてみることに する。

○紙燭(しそく・ししょく):広辞苑によれば、@宮中などで夜間の儀式、行幸な どの折り用いた照明具の一。松の木を長さ約1尺5寸、太さ約3分の棒状に削り、そ の先を炭火であぶって黒くこがし、その上に油を塗って点火するもの。下を紙屋 紙(※)で左巻にした。Aこよりを油にひたし灯火に用いるもの。
 ※平安時代、京都紙屋院(京都紙屋川のほとりにあった宮用の製紙所)で漉い た上質の紙。後には紙屋院ですきがえを漉いたので、すきがえしのうすずみ紙を いった。綸旨(りんじ、みことのり・天子のことば)を書くのに用いたので、綸旨 紙ともいった。
 佐渡で照明として使った紙燭とは、材料もつくり方も大分違うようだ。

○扣竹:なんといったんだろうか、扣(こう)は、うつ・たゝく・ひかえるという 意味があるというが、明りに用いた扣竹は何竹を取ってきていたろうか。なお昔 は、控の字の代りに扣を使っていることがよくある。

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