下タ沢会によせて(覚書)

からめ節 − 元山流と赤沢流? − さて続いて −

 このからめ節の文句にも若干違うものがあるが、例えば金のべごこにしても「我 も我もと引きたちがる」とあるが、「おらも引きたい引かせたい」というのもあっ て、これ等は唄い継がれ、聞きおぼえていき、また即興で唄われることもあったろ うから、大同小異で大いして問題ないと思う。歌詞はまだまだ沢山あるので、後で 余裕があったら書留めておきたい。

 このからめ節にも元山流と赤沢流があったといわれている。「流」といったかど うかわからないが、二ツの唄い方のあったのは、事実のようです。現在尾去沢には 「からめ節保存会」(昭和59年(1984)11月発足、柳舘計一会長)があって、伝承 活動をしているが、それが赤沢流なのか元山流なのか私にはわからないが、昭和26 年頃であったか、尾去沢の所長をされた前田善春(昭和23年9月〜26年3月)が本社 の採鉱部長(鉱山部門を統括)になってはじめて尾去沢に来られたときに、その歓 迎の宴があって、そのとき鉱山クラブでからめ節を踊ったのが、下タ沢の若い女の 人達であった(クラブの藤棚のところで写した記念写真がある、アルバムにつける 予定)。唄い手は城山の佐藤ハルさんという人で、鉱山の沈殿銅を取るのに働いて おり、下タ沢の沈殿にもよく来たので、私達もよく知っていた人であった。その佐 藤ハルさんの唄った節まわしが、今の保存会の人達が唄っているのと同じかどうか、 佐藤さんの唄を聞き覚えている人達に、今の唄を聞いてみてもらいたいと思ってい る。その元山か赤沢かは別として、現在その一方の唄い方のできるのは、郵便局の 向いに住んでいる奈良幹雄さん(元坊主山にいた)である。やはり今保存会の人達 の唄っているのと、節まわしに若干の違いがある。その節が唄えるのは、今尾去沢 では奈良さん一人よりいないので、是非テープにとっておきたいものと思っている。

 この三菱本社(当時は本店といっていた)の重役(前田善春)が来て、その前で 踊るということは、昔の殿様ほどではないにしても、当時としては晴れがましく皆 張切って練習したろうと思う。踊る若い人達もとっておき?の着物を着て、そろい の大直利の前掛けをしている。まして昔は殿様の前で踊るということは、大変なこ とだったと思うが、次のような微苦笑物語りもある、ということで話しの続きにも どってゆく(それはそれとして、なぜ下タ沢の若い人達が踊ることになったのか、 いろいろ考えられるが、後日確めてみたい)

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