下タ沢会によせて(覚書)

上山守古の見た尾去沢 − 両鹿角扈従(こしょう)日記から −

 さてこの松浦武四郎が来てから11年後(万延元年(1860)今から141年前、明治に なる8年前)に南部藩主第四十世利剛(としひさ)公(南部藩最後の殿様)が鹿角地 方を巡視した際に、中奥小姓として終始側近くにいた上山守古がその間の記録を綴 った「両鹿角扈従(こじゅう、あるいはこしょうとも)日記」より尾去沢関係を中 心にところどころ省略しながら抜出してみる。松岡武四郎がきてから、11年後の尾 去沢はどう変っていたろうか。
 
八月九日朝之内ハ曇晴、花輪を六ツ時(午前6時)に立って、
1、横道より五六丁程行き米代川ニ大板橋在之稲村橋ト云馬除在之以前は舟橋のよ し也此橋は花輪村尾去沢村之村界也此先段々山道ニ入
1、稲村橋より十六町(約1744M)程行追子坂ト云処花輪と御銅山之境ニ而右之方ニ 小川在西道川と云此所ニ而御先立代リ合
          御銅山敷内改役
           横濱三平
 右披露此所より三丁程行(約327M)
1、笹小屋 家数六十一軒
 爰(ここ)は支配人并山働之者等住居之村也中程左之方ニ五社稲荷之宮在リ(笹 小屋の稲荷さんのことか、今は山神社の隣りに移されている)、右村入り口ヘ出役
          廻銅御支配人
           北郷理左衛門
笹小屋より五丁程(約545M)
1、鹿沢 家数六十一軒(笹小屋と家数同じ、偶然の一致か)
 此先は直ニ御銅山入り口ニ而此辺より正面ニ七曲リ坂床屋またハ白(金偏+白) 釜等山内之眺望言語ニ絶したる風景也、吾画も拙ケれは写せし事たわす残多し
1、御銅山へ入リ御役処手前ニ山神之一ノ鳥居在之立額ニ而山神社ト有之伏見卿之 御筆ニ而大坂御蔵元近江屋奈良之助奉納也右鳥居際左之方出役
          御銅山方
           馬場慶作
          御銅山敷内改役
           波岡省兵衛
   其辺左之方  花輪御給人銅山居住御山見守役
    火ノ廻    内田九兵衛
1、御役所へ御着朝四ツ(午前10時)也暫く御休息直々御供揃ニ而御役屋内両社江 御参詣被為遊右者 利敬公御勧請ニ而両社と唱居也
   御神名
    天津祝詞太祝詞金山彦(かなやまひこ)命
    天津祝詞太祝詞埴山姫(はにやまひめ)命
 
利敬公御直封之よし也文化八年(1811、今より190年前、明治になる57年前、そして 菅江真澄のくる10年前)、御城より御移ニ相成候由社内へ別当出居両社別当黒沢近 江披露也
 
 以下山内の作業様子など詳しく書いておりますが、それは省略することゝし、た ゞ出迎ている役人に北郷とか内田という人の名前があるが、今の瓜畑の北郷さんと か、真佐博さんの家などと関係があるのだろうかと思って名前を書いてみた。
 また両社神社というのが出てきているが、現在の尾去沢の山神社は、正式な名称 は両社山神社というが、それはこの両社神社と元山の山神社を合祀したもので、そ のいきさつについては、後で書くことにします、ということでまた扈従日記にもど ります。

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