下タ沢会によせて(覚書)

獅子権現さまの現状と獅子舞

 第25代慈顕院がこの大権現様を、尾去沢総鎮守大森親山獅子大権現として、その 繁栄ぶりを書いているが、今はそうした神社の跡かたもなく、ご神体である獅子の 形ちをしたという大岩はそのまゝあるが、永年の風雪に痛み、どこが顔か口かわか らなくなっている。またその前(境内)もせまく、どういう風にして、どんな神社 を建てたのかもわからない。近年まで、いつ頃建てたかわからない木の鳥居が朽ち 倒れる寸前の姿で残っており、急なせまい参道(山路)の石段が少し残っていた。 昭和30年代に尾去沢の文化財保存会の人達がコンクリートの板を作り、組合せるよ うにして作った祠があり(木の鳥居もこのとき建てたものか)、また秋田市在中の 特志家が寄贈したという祭壇もあった。数年前鉱山の獅子沢発電所(閉山後も電力 関係は三菱マテリアル(株)の東北電力所、秋田発電(株)として発送電の事業を 行っている)とか、発電所に勤めている花輪在住の根本光一さんという人が、先祖 が尾去沢鉱山に勤めていたという縁もあり、このまゝにしておかれないということ で、なんとかしたいという話しがあり、私達としては将来的には別としても、現状 ではどうすることもできない、と話しましたが、信心心のあつい根本さんは、自分 でなんとかするということで、私費を投じて道路も直し、ステンレス製の鳥居や社 (1間四方くらい)を作り、社は高さ3尺くらいの台(これもステンレス)に乗せ、 中に祀ってある御神体は青森の方で彫ってもらっているといっておりましたが、根 本さんには根本さんの考えがあったと思いますが、カモシカの姿になっております。

 さてこの大権現様の前で踊ったという大森親山獅子大権現舞は、尾去の海沼別当 さんの家(先に書いた慈顕院の子孫)に伝えられて、昭和39年11月秋田県の民俗無 形文化財に指定され、現在海沼さんを中心に尾去部落の人達により伝承保存され、 毎年旧4月8日、8月15日尾去の八幡神社の祭礼に奉納されている。

 この権現舞は「鹿角のあゆみ」によると、「明治に入る頃、一時中絶されていた が、明治32年より復活し、旧2月清明より十五日間に亘って鹿角南部の各部落を舞回 りした。」(清明:24節気の一つ、春分後15日目、現在暦では4月5日頃)
 また、「祭日には、前夜から参籠御通夜し、当日は「獅子大権現舞」を舞い、 「獅子踊り」を催して神意を慰め奉るようになった。後豊作を祝う、悪疫厄払い、 家内安全などと旧曙の各部落までも舞回るようになった。大正初期より再絶してい る」という。(旧曙村:現在の鹿角市八幡平地区の松舘・石鳥谷・長内・白欠・長牛・ 夏井・三ケ田等の部落、これが昭和31年6月、宮川村と合併して八幡平村となり、昭和 47年4月、尾去沢町・花輪町・十和田町と合併して鹿角市となる。)
 続いて「この舞は、「湯立て」と称して大釜に湯を湧して式(木偏+式)い、後、 烏帽子、白装束の舞人と、洞の貝、横笛、手平鐘などの楽人より成り、舞は」とな っていていくわけですが、これは鹿角市史の方がわかりやすいようなので、そちら から借りることにして、「洞の貝」は法螺貝(山伏などが吹いている)として…)

 ……尾去沢鉱山発見にまつわる獅子権現舞とは、「鹿角市史第4巻、くらしの中 の芸能」より、  「はじめに素舞(前舞)があり、本舞、仕舞と続く。
○素舞 1幣束舞、2巫女の剣舞 3権の形の舞 4青柳の舞 5剣の舞 6錫杖 の舞 7扇の舞
○本舞 1拝み手 2四方固め 3冠(かんむり)
○米汲みの舞 元朝に若水を汲んで飲むという作法で、他に類例がない。
○湯立て 拝殿での舞がすむと、外で湯立ての行事が始まる。境内に釜場を作り六 尺四方のシメ縄を張り、大釜をしつらえて湯を湧かす。神事のあと素舞を行い、湯 立の作法に入る。舞人は笹巻で煮えたぎる湯をかき回し、湯滴を自分にかけて身を 清める。のち諸作法を行なって最後は参拝者に振りかけ、厄落しをする。」

 というわけで、尾去沢鉱山発見にかゝわる話しは終りますが、この話しは先にも 書きましたように、昭和25年に元山墓地を移転する時に書いた小冊子の丸写しとい うことになるが、いつか海沼別当さんの家に伝わる元本?を見てみたい(見たとこ ろで読めもしないと思うが)と思ったり、権現舞については中々機会がなく、昭和 20年代に山神社の祭典に奉納されたのと、閉山式(昭和53年6月)のとききのアトラ クションとして舞われたとき(そのときは、行事進行の手伝などでゆっくり見れな かった)くらいしかないので、今度ゆっくり見てみたいと思っている。

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