下タ沢会によせて(覚書)

獅子大権現神社の隆盛

 さてこの獅子大権現神社は、非常に栄えたものであるということを、それから21 年後の寛政11年(1799)25代慈顕院実秉という人が次のように書いている。

「往古は御社内も広く拝殿ありて、祭日には山内一統参詣して、御堂籠の御通夜を なし、当日には権現獅子舞をなし、御湯立御神楽の獅子踊りを催し、三沢並に尾去、 西道口、蟹沢の村々より獅子踊り来りて踊を奏し神意を清しめ山師々々より花を上 げ諸役人達よりも花を上げ踊らせて終日神意を慰め奉りしもの也、御山内一統隔年 に廻檀獅子の廻るも此の因縁によるもの也、故に此大森山は三沢並に獅子沢、笹小 屋は申しに及ばず長坂、西道、崎山、等の親山にて、且つ前文化鳥並獅子頭の示現 に依て、当尾去沢開闢(かいびゃく)の神なるを以而、尾去沢総鎮守大森親山獅子 大権現と号し奉りしもの也、往古山師付の頃は山師々々並に諸役人は申に及ばず山 内の家々残らず参詣群集して、山師よりは年々奉額奉幣の式もありしもの也、其余 風を以て御手山御取付より御代参の式是其流風残れり、長坂山神堂の縁起には、大 森は諸山の親山なるを以て、親山大権現と崇め奉り、当山の惣鎮守也とあり、扨又 御山内へ盆中両鹿角秋田在より獅子踊りの数多来るも此因縁に依てなり、山師付の 頃よりまづ最初に当り御山に来り真先に当獅子大権現の御社内にて踊り初め、それ より段々順列を以而、踊りしは往古の風儀なり、然るに今は風儀も廃れ御山内へ踊の 入るのみにて御社内にて踊る事もいつしか止み、果何の訳にて御社内へ真先に来ると言ふ 事も知らず来る也、是れも生れぬ先の父を恋しく御山内に来る也、往古は大森並に 水晶山に古木大木生い茂りし頃は小川なれども水かさ増し余る程の川なりしが、い つしか此の山の木を切りたいし絆に人里となり、渕は瀬となる世になりぬれば、黒 滝の景褪せて今は昔に変せれ

往古は参詣群集して尊崇せしかば、自ら神威も自然とまして格別の御利生あらたか にして、霊験奇瑞多く別して、心願事、或は病人平癒等には不思議奇妙の事多かり し也、身の影に応ずるが如し、其の頃山山繁り長坂金山、西道、涌上り山或は五拾 枚、または六拾枚等の山々にてたびたび大直り十年、二十年、三十年の久しき福報 の大直り斗りを得、且宿願の事などにはたびたび霊験ありしもの也、是所謂、神は 人の敬ふに依て威を増し、人は神の徳に依て福びを得しもの也」

 なお、前記の文中に「生れぬ先の父を恋しく」という文句があるが、これは獅子 大権現神社の隆盛の様を書いたこの文の書出しに、次の文があったのを、長くなる と思って省略したが、前記獅子大権現御傳記に続いて「同じく追加」として、次の ように書いている。 「扨此風儀今三沢に残れり、然れ共何の訳にて祭るといふ事も知らず只何となく    闇の夜に啼かぬ烏の声きけば
     生れぬ先の父ぞ恋しき
という古歌の如く自然と生れぬ先の父を恋慕ふて祭るは天の然らしむるものや」 とあって、
「往古は御社内も広く………」
と続く。
 
 なお化鳥が死んでいたという黒滝は、赤沢部落を流れている川が山から流れ落ち てくる沢の途中にあり、その岩盤が黒いので黒滝といったとかいう。今はその下の 方に尾去沢の文化財保存会で建てた「黒滝」という標柱がある。

 さて話しは、日本には開闢以来金銀銅がなかったと続いていくわけですが、省略 しようと思ったが、この際と思ってそのまゝ書いてゆくことにする。

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