お盆の話しがイモッコの話しになってしまったが、お盆といえば、稲荷さんのお
祭りを思い出す。正式には何月何日と決っていたと思うが、お盆の頃にやったと思
う。たいし2軒ずつ組んでお祭りの当番をしたように思う。私達は高等科になると、
今度はお前達だゾ、と灯ろうづくりを申し送られたような気がする。小学校の子供
達にも手伝ってもらって、古い紙を剥して、新しい紙に張り替えて絵をかいた。難
ぎだったのは、神社の軒に吊す大きい灯ろうの絵をかくことだった。なにせ6尺の
2尺の2尺くらいあったろうか、一日二日ではできないので、何日もかかった。
お祭りのときは、参道に適当に灯ろうを立てて、ローソクを取り替えるのが子供 達の役目であった。部落の人は全員参加で、各家々で重箱を持ちよって、いわゆる お祭をやった。宴が盛り上ると、唄も踊りも出た(と思う)。トヨ子さんのお父さ ん(勝太郎さん)は相撲甚句がうまかった。いわゆるいい声、とは少し違う低音で、 しぶい声というか、今でいえば森進一みたいだったかもしれない。その絶妙の節ま わしが耳の底に残っている。以来、私は相撲甚句が好きになった。今もよく相撲甚 句を聞くことがあるが、それはただ文句をならべて唄っているといった感じで、ト ヨ子さんのお父さんが唄ったような節まわしも、心の底にひびいてくるような力強 さもない。定雄さんのお母さんも唄が上手だった。それは、今はやりの歌手のよう なキンキラ声でなく、まろやかな、ツヤのある声だったと思う。真佐博さんのお父 さんは、「みんてき」(といっていた。明笛と書くのだろう、横笛)が上手だった と思う。その頃の下タ沢の若い人達もよく吹いていた。お母さんは踊手だったと思 う。こうした流れをひいていたのか、戦時中、田郡の学校でよくやった「出征家族 慰安会」では、下タ沢は群を抜いてうまかったし、戦後鉱山文化会主催の素人演芸 会でも盛大な拍手をもらって、優秀な成績をおさめた。 私の父は漢字はおろか、ひらがなもよく知らなかったが、なぜか馬の絵が上手だ った(と子供心に思っている)。小さい頃、よくせがんで絵馬の絵(顔など)をか いてもらった。若い頃馬方などしていたかどうかよく知らないが、馬の足音をやる のが得意?だった。お椀を4ツ伏せておいて(一列ではなく)、それを馬の足の運 びのように、順序にパカッパカッと馬子唄に合せて動かしていた。唄を唄っていた のかは記憶にない。私は今でも、歩くときの馬の足の運び順序がよくわからない。 稲荷さんには、大きい太鼓と小さい太鼓と二つあった。お祭のときには、境内と いっても大いして広くもなかったが、そこに出してよく叩いた。盆おどりなどもや ってあったかもしれない。 大きい太鼓はいつの間にか、皮も破れ胴もこわれてしまったと思うが、小さい方 は、定雄さんが奥さんをもらって新山に住むようになってから借りていって、部落 の盆踊りなどに使っていたようだが、いつ頃か盆踊りもやらなくなり、皮も破ける などして、新山の出羽神社の中に保管されていたが、胴は一枚胴(刳り胴)で、し っかりしているので、大分前から定雄さんと、下タ沢の大事な形見ではないが、た った一つの記念品だから直そう、と話し合ってはいたが、中々できないでいた。今 回の下タ沢会を機に是非直そう、ということで修復に踏切った。胴は一枚胴とはい え、縁が少しいたんでいたので、下モ平の佐藤家具やさんに削ってもらい(胴の材 質はカツラの木だといっていた)、タガの締め直しと、塗装は市街地の上田塗装さ んに、皮の張り替えは花輪の丸岡太鼓やさんにお願いし、太鼓を締めるロープも新 しくして、面目一新、何十年ぶりかで皆さんにお目にかかることになった。皆さん には多額のご協力をいただき有難うございました。大事に保存していきたいと思い ます。 ともあれ下タ沢の人達は、稲荷さんのお祭りだけでなく、何にか集りがあれば、 唄ったり踊ったりと楽しんでいたと思う。 |