鹿角の昔ばなし@:特集 八郎太郎三湖伝説 秋田の民話:辰子姫物語A |
その夜から辰子は雨の日も、風の日も、かかざず真夜中の道を観音堂へかよい、一心に祈りつづけた。女の身で真夜中に遠い山路をかよいつづけることは、苦しく、つらいことてだった。ギャーというえたいのしれないけもののさけび、メリメリと木の技の折れる音、ホウホウというふくろうの声……。ある時は雨に全身ぬれそぼち、ある時はふきつける嵐に道を失い、しかし、それでも辰子はおそれなかった。やつれた顛はいよいよ美しさをまし、ひたと思いつめた黒い陸はあやしいまで輝きを増していくのだった。 こうして百日目の夜だった。 ぴったりと堂の前に坐り、一心に祈りつづける辰子は、いつの間にか夢ともうつつともわからぬ境にふみこんでいた。と、そのとき、辰子はたしかに観音様のお姿をみ、お声をきいた。 「辰子よ、かわいそうな辰子よ、よく百日の間通いつづけた。お前がそれほどねがうなら、それほど強(た)ってというなら、この山を北へ北へとふみわけていくがよい。そこに清らかな泉が湧いているだろう。その水をのめばもお前は永劫(えいごう)の美しさを得ることができるだろう……。 けれど辰子よ、その前にもう一度よく考えてみるがよい。お前のねがいは、人間の身には許されないねがいなのだということを……その時になって悔いてもおそいのだ。」 「いいえ、いいえ、この美しささえ保つことができましたら、どんなことでも悔いはいたしません!」 辰子は自分のさけび声に、はっとして我にかえった。あたりは、しんとしてただ月の光だけが青白く、木の間から洩れていた。 「夢ではない。夢ではない……たしかにおつげがあったのだ……泉の水をのめと。」 辰子の眼はきらきらとよろこびにかがやくのだった。 「辰子よ、その前にもう一度よく考えてみるがよい、お前のねがいは、人間の身には許されないねがいだということを……。」 辰子は観音さまがさいごにいわれたことをくりかえし、くりかえし考えてみた。 そしてしずかに首をふった。たとえ、どんなことになっても私は悔いない……と。 辰子は自分の心がうごかないことをしった。 そして何日かたったある日、三人の娘たちをさそい、山菜をとりにいくといってなにげなく家をでた。百日の間、夜ごとにねがいをこめてかよった院内嶽への道を、今日こそねがいをかなえるためにいくのである。辰子の胸はよろこびに燃えていた。 こうして辰子は、三人の娘たちと、わらびを折りながら院内嶽をこえ、高森をすぎ、やがで高鉢山の下をたどっていったが、目指す泉はどこにもなかった。もう太陽は高かった。疲れ切った辰子と三人の娘たちは、草原にねころんだ。さわやかな風が吹きすぎ、娘たちはぐっすりとねこんでしまった。しかし辰子は眠れなかった。あおむけにねころんで、銀のようにかがやく太陽をみていると、それさえいつかキラキラ光る泉となって空一杯にひろがった。辰子はむっくりとおきあがると、足音をしのんで娘たちからはなれ、ただひとり森の中へわけいった。 森の中はよいにおいのする花で一杯だった。 辰子はその下を、どこまでもどこまでもふみこんでいった。どの位わけいったろう、やがて森はふかいぶなの森になった。その時、辰子は日の光にキラリと光るものを見た。 「あ、泉、泉だ!」 水はこけむした緑の岩かげから、こんこんと湧きだしている。走りよった辰子は白い手をさしのべて氷のような水をひとくち、ふたくちのんだ。と、のどは急にかわいてやけつくようになった。のんでも、のんでも、ますますかわきはますばかりである。ついには辰子は何もかも忘れ、はらばいになり、水の面にロをつけてごくごく、ごくごく、のみつづけた。 そうしてどの位のみつづけただろう。ふと辰子は体の中がどうっと熱くなり、全身の血が逆に流れたような気がした。はっとして起きなおろうとしたが、もう目はくらみ、あたりいちめんに 火の渦がうずまくかと思われて、辰子はそのまま気を失ってしまった。 ひるねからさめた三人の娘たちは、辰子のいないのに気がついた。はじめはその辺で、わらびでもつんでいるのかと思っていたが、いくらよんでも返事がないのに、次第に不安になってきた。ついには小走りになり、声をからして辰子をよびながら、森のおくへおくへとたどっていった。するとぶなの森のおくからかすかに辰子の返事をする声がきこえてきた。 「あ、この森のおくだ。」 娘たちはほっと胸をなでおろして、泉のほとりへかけよったが、そこに横たわり、かすかにくびをもたげて返事をしているのは、おそろしい竜だった。 「あーつ。」 娘たちは気を失わんばかりにおどろいて、後もみずにぶなの森を走りだした。 その時、あたりがさーっと薄暗くなったかと思うと、天地がさけるような雷の音がとどろき、ごうっとしのつく雨がふりだしてきた。とみるまに山は崩れ落ち、谷はさけて、山の形はみるみる変っていった。あたりはもう真っ暗で、目もくらむいなずまの光だけがおそろしいこのありさせを照らしだした。 三人の娘は夢中だった。すべってはころぴ、ころんではとびおきて、ころげるように山をかけおりると、大声でさけびながら辰子の家にとびこんだ。 「なに、辰子が竜になったと、そんな馬鹿なことが……。」 「お前たち、気でも狂ったのではないか。」 娘たちのさけび声に集まった村の人たちは、あきれて顔をみあわすばかりだった。しかし、娘たちの紙より白く恐怖におびえた顔をみ、いんいんとひびく山鳴りをきけば、ただごととは思われない。 その時、あまりのおどろきにろばたへぺったりと坐ったまま、身うごきもせず娘たちをみつめていた辰子の母が、いきなりよろよろと立ち上った。そして、いろりに燃えさかる松の榾火(ほだひ)をふるえる手につかむと、 「辰子ー、辰子ー」 とさけぴながら、夕やみの中を院内嶽めざして走りだした。村人たちも額色を変えてあとを追い、辰子の母をたすけながら木の根につまずき、地の裂け目にころびつつ、ようやく院内嶽をこえたが……みなれた山の姿も丘も林もあとかたもなく、雷に打たれ、崖はくずれているものすごいありさまに、ただ胸をつかれるばかりだった。 と、ごうーっという風にまじって、波の音がひたひたとひびいてくる。こんなところになぜ波の音が……。おどろきとおそれにがくがくする足をふみしめ、木立ちの間をわけいった辰子の母と村人たちは、思わずあっと息をのんだ。 黒雲の走る空からかすかにもれる半月のうすあかりに、鉛色ににぶく輝く湖がまんまんとひろがっていた。 |