夜明島渓谷探勝のしおり

夜明島の伝説

伝説 その1  天狗に憧れ武芸者
 
 渓流が奇岩怪石を縫うように流れ、青葉若葉を通して陽光が時おり射すよ うにもれてくる木の下道を、武芸者風の一人の男が静かに歩みを進めて行く。 男の歩みは疲れたもののようだが、魁偉な容貌は無念無想の思いにみなぎっていた。
 飛瀑の水しぶきをあびながら飛石伝いに進み、行き手を千丈幕の断崖がさえぎる が、男は天狗の導きか縫うように渓谷の奥深く姿を消した。
 今から約四百年も前の昔、夜明島渓谷の真 夏の陽ざかりである。男の名前は大石太右衛門、夏井の郷士で郡内一帯にまで威武を誇っていた。持って生まれた武芸へのあこがれが、青年から すでに壮年期に入った太右衛門の心の中にいつしか根を張り、武芸修業の志が彼を トリコにしていた。
 
”天狗のような神通力を備えた武芸者になるのだ”
 太右衛門は夜明島の奥深く住むという天狗にあこがれた。齢四十歳を過ぎた男も夢を 断ちきり得ず、”修業ならずば帰らず”との 言葉を残しただけで太右衛門は渓谷に分け入ったのである。 太右衛門の眼前を中空に架かる絶壁がさえぎる。千丈幕である。青空に 突き出た崖の果てからゴーッ、ゴーッと地ひびきもろとも、しぶきが五彩の虹を中 空に描いて落下する。泊滝だった。太右衛門は静かに足を止め両眼を閉じて合 掌した。
 
”八幡大菩薩、われに神力を授け給え”
 滝の水しぶきが艶やかな音色に変わって太右衛門に答える。
”われは女滝。そなたの願いに添え得ぬ身、許せよ太右衛門さま”
 ごう然たる太右衛門の顔をかすかに失望の色がかすめたが、一瞬不敵の面魂にかえった。
 大小の滝壷に、足を滑らして這うように進む行き手をまたもすさまじき飛瀑がさえぎ る。高さ参百尺!渓谷第一の茶釜の滝である。合掌瞑目する太右衛門の姿を 左手にそびえる黄金の万丈幕が浮き彫りにする。太右衛門の祈りに滝は答えた。
”わしはいかにも男滝じゃがすでにして老齢、汝の願いには応えられぬ。許せよ太右 衛門”
 太右衛門は無念の歯ぎしりをしたが、いかにせん合掌する太右衛門に滝は二度と応えて くれなかった。
 
− 失望に五体を包んでとぼとぼと往路をとってかえす。 −
 広川原を降り栗根沢の「とちゃか森」まで引き返したとき、心身の疲労にたえきれず、 どっと五体はくずれおちた。
”神にかけた志も、はやわがものならぬ。神も仏もこの世になきや、夜明島の天狗は 大うそじゃ”
 うつうつと悩む太右衛門の体内からなんとしたことや、このとき放屁一発、大音は渓谷 にこだまして太右衛門の心事ひびきかえった。
”これぞわが力まだ失せぬ証拠。とってかえしていま一度頼もうぞ”
 
 渾身の力をふりしぼり、茶釜の滝に引き返した太右衛門は、夜を日に継いで一心不乱に 祈り続ける。月明のある夜、ついに滝は太右衛門に答えた。
”それほどまでの願いとあらば、わが神力の一端を授けん、われと共に来たれ”
 教えるのは滝の化身夜明島の天狗、道場は跳石、飛石、水を飛 び、岩をくぐる血の修業が続いた。ある年の一日ついに太右衛門の五体は十間余り距って いる跳石、飛石を見事に飛んだ。
おしまい。

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