相馬大作事件
 
五、相馬大作事件
 このような弘前藩への不満を抱いた盛岡藩士の下斗米秀之進は、弘 前藩主津軽寧親に辞官隠居を勧め、それが聞き入れられない場合には、 「登城前、地廻り道中及び国内を選ばず、侮恥の怨を報じ申すべく候」 と、暗殺を伝える隠居勧告文を作成して、その機会を窺っていた。
 この隠居勧告文には、秀之進とその門弟等4人の血判が据えられていた。
 
 文政4年秀之進は、同志4人と謀り、弘前藩主が参勤交代から戻る 途中を、秋田藩白沢駅(現秋田県大館市)、即ち秋田・弘前藩境の峠よ り12キロ秋田寄りの白沢村岩抜山で待ち伏せし、狙撃しようとした。 しかし、同志の密告により未遂に終わった。つまり弘前藩主一行は、 日本海沿いを迂回して帰国したので、難をのがれたのである。
 
 盛岡藩では秀之進の行動を「義挙」として領内にかくまおうとした が、秀之進は、藩に迷惑がかかるのを恐れ、あくまで「浪人相馬大作」 の行動とするため江戸へ向かった。
 名を「相馬大作」と変えたた秀之進は、妻と共に出奔して江戸に上 り、道場を開いていた。しかし同年、幕吏に捕らえられ、木製の大砲 一発を撃ち込んだ「檜山騒動」と呼ばれる事件として処刑された。
 
 秀之進による弘前藩主狙撃未遂事件のことを、世間では「相馬大作 事件」と呼んだ。
 この事件によって、帰路を変更したことが幕府に知られ、津軽寧親 は隠居に追い込まれたので、結果的には秀之進の目的は達せられたと 云うことになる。
 
 当時、江戸の庶民は秀之進の行動に大いに感動した。事件は講談や 小説の題材としてもてはやされた。
 即ち、水戸藩(茨城県)の尊皇攘夷論者で西郷隆盛や橋本左内(さ ない)らに強い影響を与えた藤田東湖は、『下斗米将真伝』を著して その義烈を称えた。また長州藩(山口県)の吉田松陰は、長歌を詠じ て彼を追慕した。
 時代の先覚者とされ、「南部家の大石蔵之助」とか「南部の赤穂浪 士」とも称された相馬大作の行動は天下に喧伝され、頼山陽なども詩 を作って、これを激賞した。
 この事件は、堕落し切っていた当時の武士等を戒める、格好の出来 事であったのである。
 一方、相馬大作は、出身地の盛岡藩(南部)などでは、藩の忠臣と して神社に祀られている。

[次へ進んで下さい]