四、いきさつ
戦国時代に北奥を支配していた南部氏は、津軽地方の大浦為信を家
臣筋とみなしていた。その為信が、南部氏の支配から独立して弘前藩
の初代藩主(津軽為信)となったので、盛岡藩では快く思わなかった
のであろう。その後、このときのいきさつが、盛岡・弘前両藩に影を
落とすことになり、両者の確執は越えがたい溝となって深まった。
このことは、津軽氏が参勤交代のとき、盛岡を通行しなかったこと
や、相馬大作事件などによっても察せられる。
さて文政3年(1820)、盛岡藩主であった南部利敬は39歳の若さで
世を去った。弘前藩に対する積年の鬱憤が彼の死をはやめたと云う。
遺領を継いだ利用(としもち)は、未だ14歳で無位無官だった。
これに対して弘前藩主の津軽寧親は、従四位下侍従に叙任されていた。
即ち事の起こりは、元々南部家の家臣筋であった弘前藩主が、盛岡
藩主を出し抜いて高い位に付いた事に始まる。盛岡藩主南部利敬は、
津軽氏の下に位すること潔しとせず、 ついに「我が藩に大石藏之助
は無きか!」と、狂い死にしてしまったと云うのである。
当時北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、秀之進も「わが国の百
年の憂いをなすものは露国なり、有事のときは志願して北海の警備に
当り、身命を国家にささげなければならない」と、諭していたと云う。
相馬大作壮図之蹟
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