相馬大作事件
 
三、弘前藩
 南部領盛岡藩と津軽領弘前藩との対立は、それまで南部氏が支配し ていた津軽地方が、大浦(津軽)為信(おおうらためのぶ)の逸早い 小田原参陣によって豊臣秀吉に公認され、南部氏の領地でなくなった 天正18(1590)年の奥羽仕置(おううしおき・奥羽の諸大名の成敗) に端を発するとされている。
 
 津軽氏は津軽為信を祖としている。元は藤原氏の支流とも云われて いるが、13代藤原氏の後裔説、近衛尚通の曾孫説などある他、為信 が養子に入った大浦氏は南部の出であるが、為信自身も元は南部氏の 何らかの出とも云われ、南部氏が清和源氏であることから、藤原氏出 身説も定かとは云いがたい。
 
 津軽為信は天文19年(1550)、津軽赤石城に生まれ、永禄10年(1567)、 大浦城主、大浦為則の養子となった。
 為信は、南部氏に属していたが、南部氏が衰えると、和徳城を攻め 落として反旗を翻し、天正6年(1578)に波岡城を、同13年(1585) に田舎館城を攻略した。主家であった南部勢を津軽郡より追い落とし て、この地域を領有してより、津軽氏を名乗ったのである。
 
 天正19年(1591)、九戸政実の乱において、秀吉の命を受ける形で 陸奥福岡城を攻め、文禄3年(1594)、堀越に本拠を移した。
 関ヶ原では家康に荷担し、美濃大垣城を攻めた。 この功により翌、 慶長6年(1601)、堀越城のまま六万石を得、この後は、徳川氏の後 援を受けていたとも云われている。
 
 時代が下って、第九代藩主津軽寧親(つがるやすちか1765〜1833) のとき、即ち文化2年(1805)、四万六千石から七万石に高直しされ た。
 その後、盛岡藩が二十万石に高直しされたその日、弘前藩も蝦夷地 警護の功によって十万石に高直しされた。このことが、「相馬大作事 件」の引き金となったのである。

[次へ進んで下さい]