相馬大作事件
 
二、 盛岡藩
 南部領盛岡藩は、東北地方の北部に位置し、江戸時代の初期には、 沢山の金山に恵まれ、藩財政は、「封内富饒にして富既に天下に甲た り」(『食貨志』)と称されるほど豊かであった。しかしその後、江戸 時代の後半になるに従って、金山は銅山へと変わり、また相次ぐ凶作 や飢饉にみまわれ、藩財政は非常に苦しくなってきた。
 この財政難を克服するため、年貢の増徴などの藩政改革をしばしば 断行した。その都度、領民は百姓一揆を引き起こしたりした。
 更に江戸幕府から、御手伝普請や松前出兵を命じられるなど、藩財 政は極度に窮迫することとなった。
 
 天明4年(1784)に、盛岡藩の第十一代藩主となった南部利敬(1782 〜1820)は、蝦夷地(北海道)警護への功績と藩政推進の助けになると いう理由で官位昇進運動を展開し、文化元年(1804)、それまでの従 五位下(じゅごいのげ)から四品(しほん・四位)に昇進した。
 
 一方、盛岡藩の家格は創設以来十万石の外様中藩であったが、弘前 藩との対立の過程で、文化5年(1808)、領域はそのままで二十万石 の外様大藩に格上げされ、利敬は侍従に任官した。

[次へ進んで下さい]