相馬大作事件
 
一、 相馬大作
 相馬大作(そうまだいさく)こと、下斗米秀之進(しもとまいひで のしん)(寛政元年(1789)〜文政5年(1822))は、南部領福岡(岩手県二戸 市)の盛岡藩士の二男に生まれた。
 秀之進は、無類のきかん坊だったが、兄が病弱であったため、兄が 父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きし、脱 藩して江戸に上った。弟思い、兄思いの兄弟であった。
 
 18歳で江戸に上った秀之進は、名剣士として知られていた紀州藩 士平山行蔵の門下となり、武道に精進して実用流を学び、四傑の一人 と呼ばれるほどに腕をあげ、師範代まで務めるようになった。
 しかし父が病気と聞いて帰郷し、自宅に講武場兵聖閣を設けて武家 や町人の子弟に武術の教授をしていた。
 
 丁度この頃は北方からの脅威が押し寄せ、秀之進は国防の重要性を 唱え、自らも 千島、樺太の探検を計画していた。そこへ盛岡藩主南 部利敬(としたか)の死の知らせを聞いたのである。
 秀之進は探検の計画を打ち切り、「藩主の不満は藩士全員の不満で ある。南部の恥辱を晴らすには津軽に一撃を与えるより他にない」と 決意した。

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