鹿友会誌(抄)
「第拾冊」
 
△史伝逸事
○おもかげ集   △△生投
▲故内藤十灣翁は、鹿角志材料蒐集の為、老躯を提て郡内の名所を巡廻せられた丁度其 の時分、旧友の那珂博士が自転車を駆け、来郡されたので、翁も「時分も是から稽古し て、那珂の様に自転車で飛び廻る積りだ」と真顔になって話して居られた、之れ遂に実 行されなかった様てあるが、其の元気には実に及ふべからでである。
▲故大里壽翁が花輪町長時代に、何かの折に役場中で酒宴を開くこととなるや、真先に 懐中から一葉の「酒預り」を取り出さるゝが例てあった、始終、懐中には個段の用意が あったと見へるかばかりの周到なる注意があれはこそ、名町長として久しく其の職に居 られた所以てある。
▲又氏の硬骨であったことはいつぞや、管内に税金滞納か多いと云ふので、郡役所に呼 ばれて、郡長から小言が出たことがある、すると氏は、形を改めて「全体そう云はるゝ 貴方の家から滞納をなしって居らるゝ、上に立つものが、こう云ふ風故、自然こんなこ とにもなります」と臆面もなく、やって、のけたのて、郡長も唖然として、暫時言葉が なかったそうだ。
▲数年前、まだ尾去澤村西道口に高田周助と云ふ老人が住で居た、跛で何の奇もない老 爺であったが、若い時からなかなかの誠心家で、面白い経歴を持て居た、戌辛の昔、南 部藩が朝敵となった罪で、白石に国更と云ふ騒があった際、彼れは既に一農家の戸主で 、妻子もあったに係らず、三百年来の藩主の御恩を報ずるは茲也と、断然、繋累を断て 、藩中の志士と共に江戸に馳せ登り、国更中止の運動に従事し、果ては身を挺て今上陛 下の龍駕に直訴せんとまで計画した。其のことは果さなかったけれとも、其の志が藩侯 の知る処となって、仲間小者が一躍して御近習役に召出されたなぞは、なかなか振て居 るではないか。
▲彼の鹿角口の総大将たった楢山佐渡氏が罪を得て切腹する際も、之れを悲むの余り、 窺に身代わりとなって自殺しようとした、之れも其の間際に人に認められて果たさ なかったが、藩主も余程奇特に思ぼされたと見へ、世定てお暇を願た際に、御自筆の掛 物一幅定紋を、打ったる扇子一対を手つから賜り、厚く其の誠忠を賞美せられたそうで ある。
▲日清戦争の当時、神明堂に籠もり、数日間断食して戦勝を祈ったは、此の老人であっ た、昔の人の犠牲の精神に富み居るには、返し返しも感嘆の外はない。
▲丁度一昔ばかり前、花輪に小田島喜藏と名乗る飄逸な人物があった、嘗て知人の家に 通夜に行て、念仏の節が面白くて堪らず、知らず知らず立て、柩の前で踊たなぞは、最 も聞へた逸話の一つである。狂歌もやった、或る家の仏事に招かれて、即吟「仏事とて 親類やから、よせ豆腐しくわせ給へ、南無あみ杓子」、之れが古人の口真似をも古歌 の焼き直しでもなかったら、無論一大通ての秀逸であらう。

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