鹿友会誌(抄) 「第拾冊」 |
△史伝逸事 ○明治三十九年二月二十六日より数日に亘れる秋田魁新報の時局美譚中、鹿角人に係る 者を左に抄録し、後生に日露戦争の当時国内の情態を示さんとす 川村左學寄 一、少年、父を励ます 鹿角郡宮川村小田島勝藏は、年齢僅に十二歳にして、同村尋常小学校補修科第一学年 生なり、其父倉松は明治三十八年秋、後備兵として出征せり、将に出発せんとするに臨 み、老父に謂て曰く、 児、今召に応して出征の途に就く、素より生還を期せす、希くは、老体の健全を祈る 、 と、老父曰く、 未曽有の国難に当り、一身を棄るは軍人の本分にして、毫も遺憾なし、須らく勇戦奮 闘、人後に落る勿れ、只我は齢既に七十に近く、汝の死後、独り勝藏の在るのみ、我れ 余命幾于もなく、前途聊か憂慮に堪へさる者あり、 と、感極て落涙す、勝藏、傍に在り、祖父を慰め、父を励まして曰く、 児や幼なりと雖も、能く留守宅を守り、勤勉励決して、祖父を煩はさす、 と、其言凛然として、懦夫をして起たしむる者あり、 倉松勇奮して出征す、勝藏、爾来学業の余暇には、一層家業に精励し、能く祖父に孝 養を尽くし、応召の父に対しては屡、祖父の健在を通信し、以て出征者をして後顧の憂 なからしむ、洵に感すへきなり 二、小学児童の寄附 同郡同村尋常小学校児童一同、申合せをなし、冬季休業を利用し、男児は縄を綯へ、 女児は麻糸を繰り、之を売却して金三円を得、恤兵部に寄附方を校長に申出たり、 この挙や、児童等か、時局に感奮したる結果にして、毫も学校其他の勧誘に出でたる に非す、校長、其心掛を賞して、寄贈の手続をなせりと云ふ、洵に感すへきなり 三、鍛冶の国債 同郡同村阿部藤次郎は貧困にして鍛冶を業とし、漸く生計を営めり、第一回国庫債券 募集の挙あるや、人皆貧困なるを知りて、応募を勧誘する者なかりしか、藤次郎、締切の 当日、居村役場に到り、 我れ、貧究なりと雖も奉公を尽すは此時なり、今国庫債券の募集にに応する を得は、粉骨砕身、業務に精励し、以て其業務を尽さんとす、希くは許容せられんこと を、 と、村吏、其決意を諒して募集に応せしめたりと云ふ、殊勝の心掛と謂ふへし 四、水兵の救助 同郡大湯村出身の海軍水兵に津島良助なる者あり、身軍務に服し、具さに艱苦を嘗め つゝあるに拘はらす、応召軍人家族に深く同情を表し、薄給の身を以て其受くる処の供 給を割きて貯蓄し、其金員を同村長に送りて、軍人家族の貧困者に配与方を依頼越せり と云ふ、其心掛の殊勝なる、嘆賞するに余りありと云ふへし 五、老幼の扶育 同郡七瀧村歩兵一等卒木村子之助は、家に七十歳の老父や、七十歳に近き叔父、及妻 子二人を遺して、其弟と友に応召出征せり、子之助妻「やえ」は、家、素より赤貧洗ふ か如なるに、一家の主働者二人を失ひ、一層窮迫に陥ると雖も、毫も憂色なく、身を以 て家計の重圧を負ひ、具さに辛酸を嘗め、能く老者を慰藉し、幼児を養育し、又晨に起 き神社仏閣に詣てゝ、出征者の武運を祈願し、一日も怠ることなし、常に人に語りて曰 く、 良人、既に出征せり、素より生還を期せすと雖も、希くは適弾に斃るゝとも、病死せ さらんことを、 と、其決心、牢として動かす、勤勉精励以て其日を送れりといふ、洵に軍人家族の模範 とするに足れり |