鹿友会誌(抄)
「第九冊」
 
△文芸
○鏡浦吟(北条八幡浜にて)   玉水
夕やみの松原いでゝ
静かなる磯にし立てば
退く汐は又たちかえり
白犬の群の如くに
わが足に来り戯る。
 
岸に立つ波の外には
浦の名の鏡のおもて
曇るべき雲もうつらず
かき乱す風さへもなし。
 
嫦娥(つき)の住む桂の宮の
円(まろ)きをば二つにさきし
その一つ茲に移して、
これやこの、海とはいはじ、
姫神が星の小姓と
夜な夜なの浴みの場(には)か。
 
春四月、花ちる頃を
沖はるか、霞は立てど
紫のにびたる色に
淋しさのこもれる見れば
暮春(ゆくはる)の思ひにたへず。
 
海に空の光を受けて
ほのかなる色にかゞやき、
空は海の深さをうけて
仰げども底ひを知らず、
「夕暮」は何の力ぞ
天地(あめつち)の二つをつなぐ。
 
西の方、沖より暮れて
漁り火は星より繁く
祭礼(まつりび)の夕べの如し、
海幸(うみさち)も思ひやられて
帰り待つ身にはあらねど
しかすがに独りほゝえむ。
 
一つ消え二つあらはれ
漁り火の見えては消ゆる、
人の身に思ひよそへて、
忘れたる記憶(おもひ)にかへり
悲しさは胸たゞよはす。
 
たゞ一人浦曲(うらわ)に立てど
寂寥(さびしさ)は味苦(あぢにが)からず、
たとふれば少女の胸に
初恋の蔵(かく)るゝごとく
嬉しさは淋しさまじへ
淋しさに嬉しさこもる、
をかしきは夕べの思ひ。

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