鹿友会誌(抄) 「第八冊」 |
△紀伝 ○嗚呼櫻田少尉 内田守藏 櫻田少尉、黒溝台(コッコウダイ)に名誉の戦死せらると、之れ秋田補充大隊長より 遺族に寄せらるる所の報電なりき、計らさりき訃音急にして、吾人の耳を貫く、嗚呼、 氏は遂に国歌の為めに名誉の戦死せられ、黒溝台辺の露と消えられたり 姓は櫻田、名は英吉、明治十三年を以て尾去澤字獅子澤に生る、櫻田権八氏の長男な り、 余、幼にして眼病に冒されて、東京に遊療し、氏の幼時を詳らかにせず、中頃、帰郷 以来小学校長故越津先生門下として、君に接す、氏は余より一級先輩にして、現に当会 員月居忠悌氏と級を同ふす、故先生、子弟を教ふること、練にして古漢学塾の趣きあ り、精神修養に心を委ねしめたるか如く、門下、有為の士に富み、其風、今日の学制の 比にあらさりき、氏の如き其の門下に出るも亦、偶然にあらざるなり 性質、堅忍不抜にして、寧ろ豪情我慢なりき、一言一句、之を通さずんば止まず、故 に到る所、敵なきことを得ず、当時、余の如き豪忽鳩れば争ひ、合すれば嘩ひ、氷炭相 容れさるもの数歳なり、然かれとも又磊落細事に拘泥せす、直に相結んて旧讐を忘るゝ か如きのも亦多なりき、長とする所は漢籍数理にして、好て古英傑の伝を読み、其行を 慕ひ、談、茲に渉れは、或は忿怒、或は悲愁流涕歔欷して寝食を忘るゝに到る、要するに 氏は意にあらす、才にあらす、情を以てなれるが如き人なりき、以上の性は、以て反て 氏をして級の上席にあらしめ、一方に於て尊意を表せられたりき 明治二十八年、青雲を望んて東都に遊学す、忌憚なく言はんか、家貧きにあらされと も、決して富めるにはあらす、氏の遊をして裕なる能はしめざるなり、 父母初め之を止む、村老、為めに氏を諌む、然かれとも、氏の性質は遂に父母の膝下 に祖業を株守し、郷里の埋木たるを肯んせさらしめたりき、断然、衆議を排して東都に 猛進し、身は国家の于城として立つなくんは死すとも故山に帰らさるを契ふ、而て其の 行を後援するものは、重に外戚の伯父なるを聞きぬ、送費、従て多きを得す 朝夕蒭米の倥偬に甘んして、夙夜勉励大語挫けす、常に曰く、 鵬の南瞑せんと欲するや、先つ六月の息あり、 と、余、進んて東都に学事に列するや、以来屡々会合、互に胸襟を開くに及んて、其の言 、其行、以て私淑するに足るものあり、昨日の氷炭は解けて春風和々、遂に今日の膠漆 の親を来したり、 信州の偉人宮島春松氏、夷風日に冒し、国粋月にに濫萎するを歎けき、大に礼楽を興 して、音声律呂を研究す、先輩湖南内藤氏等、之れを賛するもの多し、氏亦之れを大 として門下に侍す、世俗名利に汲々として志士賢人の学を容るゝ能はす、宮島氏の如き 、実に一簟の食に甘んせさるを得さりき、況んや其の塾生をや、朝に糠を噛み、夕に粥 を啜り、而て猶ほ其道を改めす、日夜靉然して歌唱断たす、何そ夫の如く大なるか、 三十年、登弟して幼年校に入る、茲に於てか氏は僅かに其目的とする所を得たるなり 、上洛以降三歳悉く辛楚をなめて図南の計をなし、変せさること一日の如し 三十三年、候補生として弘前師団にあり 進て士官学校を卒業し、三十六七月、遂に任官して、陸軍少尉となり、正八位を給ふ 、氏、常に曰く、 我れ不幸にして頭脳の鋭敏をかく、然れとも我れに時間と供給との充分を得せしむれ は、必す人後に列せす、 と、以来益々其言を実行せりき、汲々倦さること一歳、隊中有望士官の名声あり 嗚呼成功、人情軽きこと浮雲の如く、初志変して二に志し、又変して三に移る、其の 転せんとするや、翻々として鵝毛に似たり、之れを以て是れ成功と云へきか、剣を取ら んとして商賈に変し、文人たらんとして農事に順ふ、而て比較的或る地位名声を得れは 、之れを以て、彼人を呼んで成功せる人と云ふ、吾曹胸中、亦忸怩たるものあらすんはあ らす、氏の如きは洵に剣を握り、武を以て国家に建功せんとするの志を抱き、爾来万難 錯節砕けす、九歳一日の如し、誰れか称して成功と云はさらん 昨三十七年二月、日露外交破れて宣戦詔勅は降り、求問の軍陸に海に砲火を交ゆるに 及んて、氏、第八師団第三十一聯隊第十一中隊小隊長として出征す、余、六月出征に先 つこと一ケ月、氏を弘前師団に過る、十八日午前六時前なりき、刺を通し、氏の暁夢を 破り、互に遠疎の謝辞終り、直に談、時局に及び胸襟を開て意の存する所を吐く、氏、 突然立ちて、一振の日本刀を携へ来りて曰く、 之れ、無名なれとも維新の際、常州水戸の志士武田耕雲齋の有に属し、天狗の挙あり し時に擁せるものなり、 と云ふと、取りて之れを視るに亦、鞘八角鍔輪環共に南蛮鉄によりてものせられ、頗る 堅剛なる陣刀なり、鞘を払ふに確か先角覧刃なりしを覚ゆ、光鋒燦(火のない燦)然、 甚た手頃なるを知る、余、須く厄敵を平け名誉の凱旋せんことを翹望す、氏曰く、 諾、愁ふる勿れ、吾れは未来の大将元帥なり、醜虜猖獗なりと雖も、豈に余か天命を 奪はんや、 と、鴟吻当る可からさるものあり、余、私かに其勇を喜ふ 六軍の貔貅挙けて皆な然かり、斯如くにして向ふ、豈に百戦百捷の賀なからんや、日 は之れ当団野戦隊編制将校所属の決定ありと、居ること僅々一時間有余、氏の宿泊を薦む るを肯んせすして立つ、氏、親しく営門に送り来り、握手して曰く、 我れ不幸にして斃るれば、今日を以て相見えず、宜しく健勝幸福を祈る、 と、嗚呼氏にして、已に此の言を吐き、頗る蹇連の情あり、余、曰く、 一家弟英治君のあるあり、 と、氏答て曰く、 士、国の為めに敵を征する、後顧の隙あらんや、願くは我がなす所を見よ、 と、余、豈に一掬の涙なからんや、嗟々氏は遂に不幸なりき、僅か一時有余の快談は 、一世の訣別なりき、此時約する所の写真こそ、形身の品とはなれるなり、 懐ひ出せば三年前、涼風面を吹き、月露衣を沽すの夜、遠く稲村橋畔に約せる契は、 之れ五十年の恨なりき、今年月明年の玉兎旧によりて斯の如きこと万歳、契人は去りて 帰らず、云ふべからず、行ふ可からず、責任は長に重くして恨永く深し 軍機秘密にして洩らす可からず、而て吾人は新聞紙の報道により、之れを知るのみ、 余は之れを贅せず、只黒溝台の会戦は、征露以降の大戦に列す可し、名誉の死傷者七千 人、氏は此の中にあり、砲弾の為めに片脚を奪はれたるなりと、最後の勇戦遺憾なかり しと想ふ、氏の性行を以て、氏の訣別の言を以てすれば、勇戦奮闘必ずや三軍の目を驚か しめしならんか、三十八年一月二十六日の日は、終に吾人をして忘る能はさる印象を与 へたり、 氏は今やなし、昔日の抱負、戦場の偉功、誰に依りてか、きくを得ん、噫々然りと雖も、時 維れ国家多端浮沈の際、死を鴻毛に比し、名を万鼎の重きに較べ、忠君愛国の志を全ふ するは、士の常情なり、氏、幼にして茲に志す、吾人は遺憾とする所なし、氏、夫れ亦 喜んて地下に瞑し、九段坂上永劫に護国の鬼とならん哉 「想起す故人十三氏」 |