鹿友会誌(抄)
「第八冊」
 
△紀伝
○栗山先生伝
 先生、初名は新兵衛、後に再助と改め、盛岡藩士栗山九八翁の長男なり、文政七年三 月十八日鹿角郡花輪に生れ、資正温厚篤実なり、長して武を好み、剣術を關右平太翁に 、銃術を櫻井忠太翁に受け、而して長沼流の兵法を同郡毛馬内の泉澤恭助翁に学ふ、毛 馬内は花輪を距ること殆と三里なり、而して先生、之を遠しとせす、其聴講日には必す往来 して、未た曾て欠席せす、遂に其奥義に達し、安政二年二月、其極秘皆伝を受けたり
 是より先き先生、同郷の子弟を勧誘して、泉澤翁の門に入らしめ、而して自ら師に代 りて之を教授し、諄々として倦ます、故に其徒数十人に至る、蓋し花輪にて兵法を教 授する者、先生を以て始とす、先生の長沼流に貢献する所の者、実に偉大なりと謂ふへ し
 
 先生固より近傍の地理に明かなり、 嘗て十和田山に屯田兵を置かんと議を建てたりき、明治維新後、其子政次郎と共に此 山中に隠れ、開墾を以て楽みとせり、十和田は西に大湖あり、周回十里余、島嶼散布し 、水清く山奇なるは以て我か性命を長うすへし、然れとも気候寒多く暑寡く、老躯に 適せす、故に先生、晩年花輪に帰り、其家に閑居し、明治三十三年一月十六日、病て没 す、時に 年七十七、其長寿を享けたる者、豈其山中に隠れたる故に非るか、而して先生、開墾せ し所の園圃及ひ其居りし所の家屋、今尚存せり、其兵法の秘書と共に皆永く紀念となす に足れり
川村左學稿

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]