鹿友会誌(抄)
「第七冊」
 
△僕の雑記帳   小田嶋省三
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 錦木村猿賀神社は、田道将軍戦死の場なりしと伝へらるゝが、将軍のことは、古事記 、古語拾遺等には記載する所なくして、たゞ日本書紀仁徳天皇の条に、
 
五十五年蝦夷叛之、遣田道令撃則為蝦夷所敗以死于伊寺水門、時有従者得田道之手纏与 其妻乃抱手纏而縊死、時人聞之流涕矣、是後蝦夷亦襲之略人民、因以掘田道墓則有台蛇 発、瞋目自墓出、以咋蝦夷悉被蛇毒而多死亡、唯一二人得免耳、故時人云田道雖既亡 報讐何死人之無知耶。
 
と、猿賀神社を将軍の墳墓とする説の詳細は、往年、花輪小学校生徒の発行したる学習 会誌に記載せられたことがある。其説は、高瀬某家の口碑近傍の地理及び御神体等を基 本として立てたる推測説に過ぎないが、中々面白いことがあった。
 伊寺の水門は、毛馬内町字石野村にして、戦場を神田河原となし、毛馬内創立以前に 、石野の繁盛なりしことをも云ふて居る。
 
 伊寺水門は、上総国夷隅軍なりと云ふ説、一時行はれしも、其誤りなるは今日学者の 断言する所である、先市陸前石巻附近より霊蛇田道公墳と刻したる石碑を発掘せる ことあり、されどこれも後世の偽造なることは明である、飯田武卿曰く『按ずるに墳こ そは偽造なるべけれど、牡鹿郡は桃生郡に隣りて、古昔、蝦夷の界にてありけらし、石 巻も両郡の界にて、海辺へ突出したる湊なれば、此伊寺水門ならんも知がたし、石巻は 昔、伊寺と云ひしより、さる偽造のありしものとなしたらんには、考への妨とはならざ るべし』と、されどこれも推測説のみ、要するに伊寺の水門なるものは不明である。
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