鹿友会誌(抄)
「第五冊」
 
△亡友紀伝
○木村熊治君伝
 明治二十七年九月十七日、名誉の死を遂けたる木村熊治氏は秋田県鹿角郡花輪の人な り、父は富藏、兄は寅太郎といひ、母は樋口氏、明治六年六月二十日に生れ、幼にして 父に従ひ四方に遊ふ、初め本県雄勝郡湯澤小学校に入り、修業中転して福島県伊達郡北 半田小学校に入り、明治十六年五月、初等科を卒業し、十九年三月、中等科を卒業し、 二十年四月、同県桑折高等小学校に於て高等小学 全科卒業に相当する証明書を受け、此間屡優等の賞 与を受く、又明治十七年四月より十九年九月まて、宮城県士族宮澤半五郎に就き、漢学 を修業し、同年十月より廿年十二月まて同県士族守屋豊次郎に就き、漢学を修業し、廿 年五月より二十一年十月まて福島県士族古川清治に就き、英学を修業し、廿年六月、伊 達郡第一回授業生講習会に入り、八月講習済の証書を受け、廿一年二月、第二回授業講 習会に入り、六月、修了の証書を受け、二十四年五月より六月まで伊達郡々部講習会に 入り、其証書を受く
 
 其職務は、明治二十一年十月より二十六年十一月まて、北半田小学校の授業生となり 、月俸四円より六円に至る、氏は幼少より他郷に在るを以て、親戚といへとも其人とな りを知る者、甚た少し、但其卒業証書賞与状及ひ事蹟等により、其性質品行を知るへき のみ、氏、明治二十六年三月、徴兵体格検査を受け、甲種歩兵となる、氏の喜ひ知るへ きのみ、七月籤に当らす予備徴員となる、是に於て氏大にこれを遺憾とし、更に第一海 軍徴集区に志願し検査合格す、十一月、願により授業生を免せられ、十二月一日、海兵 団に入り、五等信号兵となる、此月、福島県庁より勤務中格別勉励なるを以て、金拾弐 円賞与せらる、廿七年七月、四等信号兵となり、扶桑艦に乗り、九月十七日、清国大孤 山沖に於て戦闘中、午後二時頃弾丸の破片のため、項部盲孔創を負ひ、頭蓋底より脳内 に穿入し、即死せり(軍艦扶桑軍医長壹岐幸存氏の死亡証明書に拠る)、
 時に歳二十一年四ケ月なり、嗚呼氏は、固より士族に非す、而して初めには能く学業 を励み中能く職務を尽し、後には軍人となり、身を以て国に殉ふ、亦日本男児に恥ちす と謂つへし、これ氏の性質の美に資るといへとも、我国の学制軍制、其宜きを得るに非 さるよりは、安そ能く如此なるに至らんや(川村左學君稿)
 
 余輩、固と君と郷を同うすと雖も、不幸其生前に於て、一たひも君の英姿に接するを 得さりしは、余輩の大に憾となす所なり、実に本会員の多数は、戦死の報を得て、始め て君を知れり、然りと雖も、一ひ君が伝を読みて、其事に当る真勢、危に処して自若た りしを知るに及て、誰か景慕の念を生せさらん、特に籤に外れ、現役に服するを得さる を憾とし、進て身を海軍に投したることの如きは、世の滔々者流堂々体躯を持して、而 も百方兵役を免かれんとするの輩をして、慚て死する所を知らさらしむるに足る、夫れ 比隣日夕面を会して猶ほ友たらさる者あり、或片言隻語にして、断全の交をなすものあ り、君か如きは本会に取りて、未見の益友なりと云ふべし、左に半田村有志者贈る所の 彰功状並に吉川少尉か令厳富藏氏に与へたる報告を載す、依て以て君か行事の一班を窺 ふに足らん
 
   彰功表
 木村熊治君は、朴訥温厚の士なり、明治廿一年六月職を半田小学校に奉せられしよ り今日に至るまて五ケ年有余、多年一日の如く、孜々として任務に服し、諄々として 子弟を薫陶せらる、其功績殊に顕偉なり、今や職を辞して海兵団に入なんとす、其志や 感すべく、其挙や壮なりといふべし、茲に謹て時計一箇を贈呈し、以て聊か彰功の意を 表す
 明治二十六年一月二十四日
   福島県伊達郡半田村有志者総代
        高橋英正
        佐久間兼藏
        高階一郎
        菅野彌聰治
 
 一筆啓上致候、令子熊治氏御事、去る九月十七日清国盛京省大羊河口に於ける海戦に 戦死を遂けられ候に付、当扶桑艦内の部署上我分隊に属するものに付、当日の状況等左に御報 に及ひ候、
 海戦は凡そ正午に始りて四時間余に渉り、実に近世歴史上にも無之大激戦なりし事、 及ひ大勝利を得しこと、既に御承知の事と存候間、茲に不申述候
 海軍四等信号兵木村熊治は喇叭伝令の間、敵弾の破裂鉄片により、右脇腹に負傷し、 出血被服を漫せはも尚ほ自若として少しも屈する色なく、奮て其職を務む、暫にして再 ひ本艦煙筒の下部を貫かれ来る敵弾の鉄片に頭部を貫かれ、前部上甲板左舷側に喇叭を 持たる侭卒倒、遂に戦死す、時に午后第三時なり
 右の通、実に当日勇戦者の一人として、艦長以下乗組員の深く感賞する処に有之候間 、右御報迄如此に候
 十月十一日於朝鮮国
   扶桑分隊長心得
        海軍少尉 吉川孝治
  木村富藏殿

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