鹿友会誌(抄)
「第五冊」
 
△亡友紀伝
○大越保太郎君伝
 丁丑以降日本魂不動也久矣。日清釁勃然而振者亦非無故。如竹馬大越其君其秀而芳者 歟。君以明治六年十月廿日生于鹿角郡花輪。父彌助氏早逝。兄専太郎氏継宗家。以故君少爲 家督。小学校卒業後続修英数漢之学。心已有大志。然業務劇而而資不裕。空望青雲歎無 時機。廿六年受徴兵検査君偶有微恙然英気不禁不論籤当否願為兵卒。徴兵官亦愛君之雄 姿。擢為羽林騎隊。朧月入営属騎兵大隊第二中隊累進為一等卒。甲午秋有膺為懲之役 翌年和成。澎台之地新入版図。而新民頑迷不霑王化。近衛都督能久親王出南征焉君亦在 遣中。山河不知之地盛夏瘟熱之候備嘗苦艱。七月十五日君与同僚偵察三角湧附近地。険 谷陥伏散逸背進。而沿道数里無不楚歌血戦奮闘与驃騎十九名遂陣没此役以身免者僅三騎 耳。君享年実二十三歳。
 
十二月十七日官民親朋相謀。挙盛大之法典葬横町本勝寺。君無妻子故弟國松継家。君以 端麗之姿而剛邁。以温良之質而敏捷也交友肝胆相照。臥事真率尽意。常慨青年習俗不振 。有挺身矯正之志。今也散桜花于硝煙垂芳名于竹帛。半生雄図終于茲可謂亦不背素志。 噫誠可不欽而贅哉。
 
 此一編は、大越氏の友人相謀り、本勝寺(花輪)に納むる所の扁額文を記せるものな り(川村八十七君寄贈)
 左に近衛騎兵大隊より実兄専太郎氏に寄する所の報告書を摘録す、君が最期苦戦の状 、之に依て明なり

 
 近衛騎兵大隊第二中隊第三小隊長騎兵特務曹長山本芳道は、近衛師団司令部の命を 奉し、七月十五日台北府を発し、其偵察に趨く偵察騎兵小隊は、頗る警戒を加へ、「バ ンクイタウ」以下数村落を通過し、大姑陥河の右岸に沿ひ、漸く三角湧に接近す、沿道 の住民、箪食壷漿して我を迎へ、悲喜交我兵の保護に依頼するの状あるものゝ如し、然 れとも未た確然敵状を得す、此地方、右側は直に大姑陥河に限られ、左側は嵬峨たる小 岳蜒蜿として河に迫り、地逼狭長、加ふるに水田多し、道路極めて少く且つ狭隘危険に して、屡々狭少薄弱なる橋梁を架し、総て騎兵併ひ進む能はす、地形馳駆に便ならず、 騎兵の困難是に至りて極まるものと云ふべし
 
 三角湧を距る約一里の地に至る、忽ち敵兵、左右の高地に現はれ、小銃を乱射し、銃 声前後に起る、小隊は、会々水田中の隘路を通過中なりしが、不意に此襲撃に逢ひ、応 戦せんと欲すと雖も、その地形馳駆に便ならす、又一の拠るべきの地物なし、立□に馬 二頭を斃さる、不得已急進して一村に入る、村内又敵兵潜伏して我を射撃すること急な り、小隊、遂に散乱し、集団以て整然抗戦する能はす、進退茲に谷まる、是に於て各個に 離散し、各々道を索め、「バンクイタウ」方向を望て退却す、豈計らんや、敵は四面、 我を繞囲し、「ニンクイタウ」に至る、二里許の間、山野村落各所に充満し、前に我を 歓迎せし沿道の住民は、婦女童幼に至る迄、皆武器を執て我に抗し、銃丸雨射す、我其 馬上、射撃を以て応戦しつゝ退却せりといふ
 
 村松軍曹、宮崎上等兵、櫻田一等卒の三名のみ、辛うして囲を脱して午后六時頃に至 りて、「バンクイタウ」に会合す、之より海山口村に見兵隊に投し、遂に無事台北に帰 ることを得たり、然りと雖も、小隊の残余は、小隊長以下、今猶生死不明に属す、騎兵 一等卒大越保太郎君、亦其内にあり、案するに、 往きに我か糧食縦列伝令騎兵及船掩護隊、亦殆んと同 様の敵襲を蒙り、無残の戦死を遂けしもの尠からす、殊に今回我か偵察小隊の如き、甚 尤も甚しきものにして、殆んと小隊の全員を喪ふ、余等、実に哀惜悲憤の情に堪へさる なり、然れとも此偵察小隊の如きは、最大危険を冒せるものにして、所謂虎穴に入りて 虎子を獲たるものに比すべく、始めて此地方人民か従来不覚秘匿したる逆心の底裏を穿 視したるものにして、将来全軍の利益をなさんこと少からす、而して其偵察及苦戦の結 果は、征台軍に一大決心を与へたる原因の主要なるものにして、其功、実に偉なりと云 ふべし(下略)

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