鹿友会誌(抄)
「第五冊」
 
△亡友紀伝
○森内貞次郎君伝
 故陸軍工兵中尉正七位森内貞次郎君は、明治三年十二月を以て、陸中国鹿角郡花輪町 に生る、森内平次郎氏の第二子なり、幼にして父母を喪ふ、明治十一年三月、花輪小学 校に入る、夙に俊秀の聞あり、常に級中の首位を占む、明治十八年、優等を以て小学校 全科を卒業し、擢てられて教員に補せらる、君、安せす、幾くもなくして之を辞し、廿 年春、紛然郷関を去て、東京に遊学し、同年九月、考試を経て、陸軍幼年学校に入り、 蛍雪の労を積むこと茲に三年、業を卒へて仕官候補生となり、仙台鎮台附を命せらる、
 実に明治廿三年七月なり、居ること六月にして、陸軍士官学校に入る、廿五年七月 、学成り、陸軍工兵少尉に任し、従七位に叙せられ、任に第二師団に趣く、廿七年七月 、征清の事起るや、各師団は日に出発の命を待つ、而して先鋒の栄を得たるは、実に第 五師団となす、然れども秋気漸く去り、寒風凛烈朔北の天候、人を悩殺するの時に当り ては、彼等の能く堪ゆる所にあらす、茲に第二師団は同年十一月を以て、始めて征途に 上るを得たり
 
 東北男子の任、亦重い哉、君亦、部下を率て広島に赴き、中尉に昇任せられ、翌年一 月、宇品より海に航して大連湾に入り、山東角龍髭湾に上陸し、後方より威海衛を攻む るの任に当れり、
 二月威海衛陥るの後、転して金州に渡り、鳳凰城に入り守る数月、既にして日清和成 り、遼東を還付して台湾を領するに及ひ、君亦再ひ海に航して征台の軍に加はる、
 台湾の地たる、瘴煙毒気の萃まる所、一朝病に罹り、遂に起たす、病革るや特旨を以 て正七位に叙せらる、明治廿八年十月丗一日を以て阿公店に没す、享年僅に廿有六
 
 君、資性英邁、剛毅温にして直寛にして栗まゝ、或は諧虚(言偏+虚)の口を衝て逃 るあるも迸るあるも、凛乎たる威風の而も遂に侵すべからざるものありき、其軍に在る や、規律厳正、期を過たす、功を立つる、
 多く没するに及び、上隊長より下仕卒に至るまて悼惜せざるなかりしといふ、惜哉、 天若し年を奪はざりせば、金鵄勲章は必ず君か胸辺に懸りて、本会も為に光輝を増した りしならんを、君死するに当り、大隊長木村中佐より実兄廣司氏に寄するの書あり、曰 く
 
 当隊出征以来既に十有二月、此間水火の中に在り、忠義の精神、鉄石の如く、困難辛 苦を眼中に置かす、斃れて止ん乎七世尚止ますと、故を以て本隊の名声赫々の光輝を得 るもの、是全く令弟貞次郎殿、抜群の殊勲に由れり、毎戦先鋒率先隊兵の模範となり、 其常に部下を率ゐるに恩威並ひ行はれ、統御良しきを得、温容は却て侵す能はさるもの あり、威風は毎に部下の敵よりも畏服する所となれり、故に其令を下すや、小隊長ある を知て敵あるを知らすとは、平生部下の談する所なりき云々
 
 と又、中隊長熊野御堂武夫氏の書に曰く(上略)
 
 人力の堪へ能さるの困難に際し、率先部下を諭撫奮励し、遺漏なく本職を裨補せり、 部下一般、君を尊親すること愛子の厳父に於ける如く、子弟の賢師に於けるか如く、 上下一人として君に望を属せさるなし(下略)
と、以て君の平常を知るに足る、又山崎大尉所贈山東省に於ける君か功績調書あり、 次に掲く、以て君か功勲の一斑を知るべし
 
 明治二十八年一月十二日渡清、同廿日清国山東省榮城灣龍髭半島に上陸し、第二軍揚 陸の為めに速に桟橋を架設す、同二十一日より卅日に至る迄、連続上陸点より威海衛に 至る間の道路を新設し、改設し又は偵察を為し、能く其任務を尽し、威海衛攻撃予定の 時日を誤らさるは、君、与りて大に力ありと云べし、卅日威海衛南崖諸堡塁の攻撃に参 与し、敵弾下にありて作業を為し、又偵察をなせり、二月三四両日威海衛背面防禦の地 雷数十個を堀除し、我軍を安全ならしめ、同七日敵の水雷艇及ひ艇隊長蔡廷幹以下を捕 獲するに与りて、大に力あり、同十九日より廿九日に亘り、威海衛北崖諸堡塁軍用建築 物並に第二軍乗船用桟橋構造等、酷寒烈風を意とせす、地面凍固材料不足せしにも関は らす、終始精励連続昼夜、能く部下の模範となり、時機を失せす之を成遂けたり、其功績抜 群なるを認む
 明治廿八年十一月廿六日   陸軍兵工大尉正七位 山崎英昌印
 
 君か台湾に於ける戦況は、君の手書によりて明かなり
 
(前略)今回我大隊(一中隊欠)は野戦砲兵第二聯隊の一個中隊と、同船山口丸に搭載 せられ、本月一日盛京省を名残とし、午后二時半大連湾を出発、台湾に向へり、天佑な る哉、連日晴天相続き、海上波穏かに各人の志気も一層盛に、同四日午后四時澎湖島に 着せり、而して今回の計画たる、概言すれは三面合撃にあり、即ち我か師団(師団の首 部)は南部に上陸し、混成第四旅団は布袋嘴に上陸し、近衛師団は嘉義を経日を期して 三面より台南を包囲するにありき、
 又各運送船は八日を期して澎湖島に集合の筈にて、混成第四旅団も共に該港に集合( 南進軍司令部も共に)せるを以て、九日には艨艟約五十艘、実に壮快の観なりき、十九 日には全く軍議整ひ、十日午后五時混成第四旅団に属するものは漸次出帆、小生は同午 后二時出帆、南部枋寮に向ひたり、然るに午后二時頃より北風劇しく、船は横浪を喰 ひ、動揺甚たしく、兵の多くは船酔、小生等も殆ど力なかりき、実に此時の心痛は如何 に、翌日は早朝上陸せさるへからす、目下の如く酔弱して如何と各自憂慮せしが、幸に 仝九時頃より次第に穏かになり、十一日暁天に至り、大に元気を快腹せり、仝七時頃、 船は枋寮沖に着、七時二十分頃より各船順次上陸を始めたり、而して近衛歩兵は直ちに 前進を始めて、加冬脚に達せしとき、約一千の賊あり、尤も頑固の抵抗をなし、我歩兵 中隊は苦戦甚たしかりしも、東北の堅男子豈夫れ恐れんや、益々勇戦、之れに当れり、 此急を聞き、前衛中より他の一中隊は駈走赴援、遂に之を占領せり、此劇戦、彼の歩兵 中隊は死傷約七十名を生せり、噫勇悍なる中隊よ、此一戦は実に東北男子の犠牲となり 、蛮民をして恐怖寒心せしめたるものにして、爾来盛んに抵抗するを得さりき
 
 又工兵中隊は、上陸以来昼夜を分たす、殆んと道路を修繕し、幾多の橋梁を架し、師 団の通路を迅速ならしめ(詳報は後便に)、次に記する如く宿営し、十月廿日二層行を 占領せり(十一日)新打港附近(十二日)東港附近(十三日)内關帝(十四日)淡水渓 架橋点(十五日)奉山頂(十六日)鳳山県牛潮浦(十七日)(十八日)滞在(十九日) 阿公店なりき
 
 十月廿日余の中隊は、前衛衛兵に属し行進し、二層行の南方約千五百米突に達せし時 、我捜索騎兵は、已に賊と衝突し、盛んに銃声を聞けり、依て益々前進せしに、賊は騎 兵と侮り、前進し来る故、我騎兵は漸次退却せる時機にして、弾丸は雨と来り、霰と散 する酣戦中なりき、此時、我前衛歩兵か騎兵に代り賊に当りしに、賊は「やさしく」も 其左翼は川を渡り、我右翼を包囲し来る、依て我中隊(一小隊欠く)は 直ちに展開、之れに対せり、小生は第一小隊にある故、直ちに銃に剣を附着せしめ、右 翼賊のありし黍烟中に侵入せしに、彼已に川の右崖に退却しありき、此時猶弾丸雨下、 然れとも敵弾の多くは空を飛去り、其功なかりき(我等に取りては幸)、射撃暫時の後 、歩兵と共に駈走川を渡り、彼崖に達せり、此時尤も猛烈なる射撃を受けしも、我兵、 幸に異状なかりき、此時我砲兵も急進し来り、二層行を砲撃し、歩兵前進、賊を追撃せ り、此戦、賊兵約五六百、其死傷は詳かならさるも、約百二十名位なるか、其死者を残 せるもの十六ありき、此日二層行に宿営、明日は滞在の予定なりしか、二十一日午前二 時、俄然命ありて、前進の事となれり(初め軍は十月二十三日を期して台南を合撃する 予定なりしか、此夜在台南の外国宣教師、我師団司令部に来り訴て曰く、劉永福十九日 夜逃走為めに台南は不穏の景況あり、速かに来り鎮定せられたしと、故に前述のごとく 急に攻撃の事となれり)
 
 歩兵二個中隊工兵一中隊及ひ砲兵一中隊の枝隊は編成せられ、急進台南に向ひ、午前 八時台南に進入すれは、市民は門を開き待在り、噫残念、永福、今如何と歎するも止む なし、茲に於て我中隊は台南城内並に其附近の危険物を捜索し、種々の戦利品ありしも 、牙山の時代とは違ひ珍しからす、故に省く(以下略す)
 
 嗚呼是実に君か最後の書信たり、其結末に曰く、
 各隊目下病人日増に多し
と、而て君も亦其の数に入り、悲憤剣を案して斃れぬ、惜し哉、花輪長福寺に葬る

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