鹿友会誌(抄) 「第五冊」 |
△亡友紀伝 ○川口恒藏伝 川口恒藏、新齋と号し、又愛吾盧、無人無言樓等の別号あり、 陸中鹿角郡尾去澤の人、淺利義遠の裔たり、淺利氏、世々出羽秋田郡獨鈷に城きて之 に居る、天正中、秋田城之介の弟某の為に滅さる、其遺族尾去澤に遁るゝ者、即ち川口 氏となる、尾去澤は銅を惨す、恒藏氏の祖父與十郎氏、鉱民の望たり、又学を好む、蔵 書数千巻に至る、父理仲太氏、最も採鉱の術に精しく、近日の理学を攻め、工学士と雖 も、之に能く如くことなき也、又篤学にして易を好む 恒藏氏は其長子、初より家庭に学て、夙く潁悟と称す、精敏強紀、善く詩文を属す 、蓋し一郡の少壮、能く及ふこと莫し、弱冠にして国学に志し、師承する所なくして、 已国文国歌に熟す、歌は万葉を喜び、佳句多し、又哲学を攻むるに意あり、明治廿年東 京に遊ひ哲學舘に入る、意に合はす、因て自ら英学を攻む、 國學院の建つや、即ち焉に入り、其後見聞益々博く、交友中典故の通し難き者あれは 、必す常に就て問ふ、修学の余、雅楽協会の事に尽力し、其幹事たり、会務の拡張、与 て大に力あり、鹿友会の幹事たること又数年、後進年少の誘掖を被ふる者甚た多し 明治廿六年七月國學院を卒業して郷に帰る、益々精励して書を読み、著述する所あ らんと欲す、雅楽協会、鹿友会、亦其の上京事を執らんことを望むこと至って切なり、 屡々書を寄せて之を促す、氏も亦意動く、二十七年六月病を得、七月十八日に至り、遂 に起たす、年三十、交友皆歎息して、良師友を喪ふと為さゞるなし、 大里氏を娶る、二男、長は義彌、二女長女は夭す、双親健在、又兄弟多し、氏の学未 た大成せすと雖も、其「日本人」、「亜細亜」、「大同新報」、及「教育報知」等に投 稿せし者、頗る稟然として秩を成せり、交友又遺稿編纂の企図あり、氏をして朽ちさら しむるに足らんか(内藤湖南記) |