鹿友会誌(抄)
「第五冊」
 
△史伝逸事
○譲山奈良圓藏伝
 奈良圓藏、幼名文助、通称幸藏、後圓藏と改む、南部藩士奈良重右衛門の第三子也、 安永九年庚子を以て鹿角郡花輪に生る、
 幼にして潁悟闊達、稍長して垂翼の志あり、享和三年、単身脱走して江戸に赴き、寒 宵炎天、備に辛酸を尽し、業を北山山本先生の門に受け、蛍雪の苦学頗る、得る所あり 、
 兼ねて経世済民の術に長し、名声漸く顕る文政の初、西国の藩侯、将に礼を重して之 を招かんとす、南部侯、亦之を惜み、脱藩の罪を免し、庚辰二月、挙けて儒臣となす
 
 当時藩政張らず、財務常に渋滞に苦しむ、侯、圓藏の才を知り、文政十二年十一月、 擢んてゝ其局に当らしめ、禄二百石を賜ふ、実に異数となす、
 圓藏、優涯の君恩に感泣し、筆硯を投して枢機に当り、身力を尽して職に在ること十 余年、功績大に現れ、目付役銅山吟味役を兼ね、禄二百二十石に至る、
 天保年中、尾去澤銅山に来勤し、閑を得て、父祖の墓前に詣つ、槍丁筺夫先駆後、従 盛装傍人を驚かす、誠に錦衣帰郷の語に負かずと謂ふへし、
 天保十四年、病て卒す
 
 圓藏、別に家を興し一女あり、親戚の子を配して家を嗣く、今尚盛岡に住す、
 長兄萬治、父の後を襲て重右衛門と称す、即ち奈良和市の祖父たり、
 圓藏、同郡毛馬内の人、泉澤牧太と交好し、卒するに及んて故旧遺族謀て墓標を建つ 、其文に曰く
 
先生姓奈良氏名垣字貞興号譲山又号道記堂称圓藏陸奥盛岡鹿角郡花輪人少来江戸受業於 北山先生之門無幾釈褐本藩天保十四年癸卯夏五月二十九日病卒年六十四江戸葬于深川靈岩 寺中忍教寮法諡曰致清院淨譽寧樂居士
 天保十四歳秋建之   友人盛岡泉澤充記 橘菴振書

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